19世紀後半 フランス第二帝政期のジョルジュ・オスマンによるパリ改造と 1900年のパリ万博に合わせた建築ラッシュで、パリは生まれ変わった。 パリは もはや、かつてのパリ――不衛生で悪臭漂う、迷宮のような巨大貧民窟だったパリ――ではなくなった。 今のパリは 花の都、光の都。 芸術とモードの都。 瞬が フランスにやってきた時、パリは既に過去の姿を捨てて美しく変身した後だった。 パリの大変身は、住民中心に ゆっくり進んだものではない。 上意下達――政府主導で極めて球速に(= 民意を考慮せず、大急ぎで乱暴に)行なわれた。 そのため、美しく衛生的に生まれ変わったパリを歓迎する人々がいる反面、転居先も補償金も与えられずに家を追い出された多くのスラムの住人たちは、政府のやり方を恨んでいる。 美しく生まれ変わったパリに、彼等の居場所はなかったから。 ともあれ、現在のパリは、灰だらけのボロ服を リボンと宝石で飾り立てた華やかなドレスに着替えたばかりのサンドリヨンのようなものだった。 瞬がパリに来たのは、サンドリヨンが カボチャの馬車で 王子様のいる城に乗りつけた、まさに その時だった――といっていいだろう。 そんなパリ――フランスは、パリ万博以前から 欧州ジャポニスムブームの中心地だった。 多くのフランス在住の画家や音楽家たちが 日本の文化に注目し、大富豪コレクターから 今日の食事に事欠く貧乏画家までが、浮世絵、陶磁器、着物等、日本の芸術作品・工芸品を血眼になって買い漁ったのである。 フランスは 日本文化の有力な輸出先だった。 安物の手拭いや団扇や傘、下駄や草履や提灯が、冗談のように よく売れた。 もちろん 日本国内でも高価格で取引されている磁器や蒔絵の施された手箱や屏風なども、城館が一つ買えるような値段で取り引きされ、日本に 多くの外貨をもたらしている。 そして、そういった貿易上の事情とは別に、日本が他のアジアの国々のように欧米列強の植民地にされないためには、日本が欧米以上の文化を持つことが必要不可欠と考えた日本国の政府の政策で、大勢の国費留学生が 磁器や浮世絵と共に 欧米各国に送り込まれている。 瞬も、そういった国費留学生と同じ船で 欧州に渡ってきた。 ただし、政府派遣の留学生ではなく、城戸財閥の私費留学生として。 瞬は、医学の勉強をさせてもらう代わりに、城戸財閥のための仕事をこなす義務を負っていた。 財閥のための仕事というのは、『フランスに滞在して、浮世絵や磁器の次に、欧州で売れるものが何なのかを探すこと』。 『ホクサイ、ヒロシゲ、イマリの次を探れ』 それが至上命令。 そのついでに 勉強をしたいなら いくらでもすればいいと、瞬は言われていた。 欧米列強に対抗するため、日本は(官民双方が)外貨を得たいと思っている。 欧米での日本ブームも承知している。 が、日本の何が欧米人に喜ばれるのかが、日本人にはわからないのだ。つまり、彼等の価値観が。 芸術的に高い価値を認められ、フランスの画家たちが 争うように その大胆な表現方法を真似ている浮世絵も、日本では紙屑だった。 日本の磁器を輸出する際、茶碗を包む包装紙として使われていた紙屑が、たまたま欧州の画家の目にとまったのが 浮世絵ブームの始まりだった。 フランス印象派を代表する画家クロード・モネには、ル・アーブルの港で、包み紙にされている浮世絵を見て大きな衝撃を受けたというエピソードがあるが、同様のエピソードがフランスでは 至るところに転がっている。 日本からの ゴミ同然の不用品に、欧米人は いちいち感動してくれたのだ。 渡仏後、瞬は、細かい細工を施した根付や 急須がいいのではないかと提案したのだが、城戸財閥では、その内偵(マーケティング)を進めているらしい。 それらの品が本当に欧州の人々に好まれるか、貴族や富裕層向けの高級品と、庶民向けのお手軽大量生産品の提供が可能かどうか――利益と日本ブーム継続と国防のために、城戸財閥は生まず弛まず努力を続けている。 あの大国 清でさえ、八カ国連合軍(オーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、イギリス、アメリカと日本)に、あっけなく敗れ、植民地化されてしまった。 欧米列強と共に 清と戦ったからこそ、日本は、いつか欧米列強の牙が自分たちに向けられることになるのではないかと、戦々恐々としている。 国力の強化は、日本の急務だった。 そんな日本の政府上層部の懸念を、瞬は――平和主義者の瞬でさえ、笑い飛ばすことはできなかった。 フランスで暮らすようになって、瞬は、フランス人(白人)が 極めて自然にアジアの人々を下に見ている事実を見聞きすることになった。 瞬自身は、日本人離れした容姿をしているせいか、さほど ひどい扱いを受けたことはないが、他の国費留学生たちは、アジア人――モンゴロイドだというので、様々な場面で差別を受けているらしい。 身近なところではカフェやホテルの利用を拒否されたり、即金で払うと言っても 店の品を売ってもらえなかったり。 故国では未来を嘱望されていたエリートたちだっただけに、自信を失い、心の病を抱え込む国費留学生は多かった。 フランス人権宣言にある『全ての市民は、法の下の平等である』の文言や フランス人民の 自由平等博愛の思想は、フランス国内のフランス人同士だけで有効なのである。 欧米人の中でも 特にフランス人は プライドが高く、アジア人を 自分たちとは異なる動物だと見なしている様子が窺われた。 江戸無血開城の明治維新と、王侯貴族をギロチンで処刑し続けたフランス革命。 忍耐を美徳とする日本人と、旧体制への果敢な挑戦を美徳とするフランス人。 それは 国民性の違いなのか、それとも動物としての本能の違いなのだろうか――。 サンジェルマン・デ・プレのカフェのテーブルで、カフェクレームのカップを前に、瞬は そんなことを考えていた。 瞬自身は、屋内のテーブルの方が落ち着くし、入店を許されない同胞たちに カフェにいるところを見られたくないという気持ちもあるのだが、カフェでテラス席が空いていると、給仕は必ず そこに瞬を案内する。 もちろん、それはサービスなのだ。 パリのカフェのギャルソン(壮年男性多し)は誰も、テラス席より屋内の席を好む人間がいるという可能性を考えたことがないようだった。 |