「俺、ガキの頃――城戸邸にいた頃は、毎日 喧嘩ばっかりしてて、生傷が絶えなかったけど、あれは勇気の証じゃなかったな」 「そういえば、子供の頃は、おまえは なぜか氷河と喧嘩友だちだったな。喧嘩する理由もなさそうだったが。氷河が嫌いなわけでも、馬が合わないわけでもなかったろうに」 「氷河を好きなわけでも、馬が合うわけでもなかったけどな。俺と氷河が理由もなく喧嘩してたのは、俺たちの喧嘩に利害の一致があったからだよ。喧嘩して、生傷を作って、それを瞬に手当てしてもらうため。でなかったら、原因のない喧嘩なんて腹が減るだけのことを、わざわざしたりするもんか」 「瞬に手当てしてもらうため?」 四半世紀を経て初めて知る衝撃の大事実。 紫龍は大きく息を吸い、そして 止めた。 相当の時間が経ってから、 「おまえたちは、そういう理由で毎日 喧嘩していたのか」 という言葉を、溜め息と共に吐き出す。 星矢は、頷くのも悔しいといった体で、脇を向いた。 そうして、ナターシャたちも紫龍も視界に入らない方向に視線を投げる。 だから、 「常識家なんてさ」 星矢が忌々しげに舌打ちした相手は、ナターシャたちでも紫龍でもなかっただろう。 ナターシャたちでも紫龍でもない、過去の自分。 「あの頃から、瞬は優しくて綺麗で可愛くて、俺は、怪我の手当てしてもらってて、手が触れたり、あの目で見詰められたりするたび、どきっとしたりしてたわけさ。あの頃、城戸邸に、綺麗で可愛くて優しい子なんて、瞬しかいなかったし」 星矢はナチュラルに、当時 あの屋敷に城戸沙織という少女がいたことを忘れている――忘れているだけなのだと、紫龍は沙織のために思った。 「でもさ、いくら綺麗で可愛くて優しくても 男なんだよなーって、いくら優しくされて どきどきするっつったって、瞬は男なんだよなーって、常識家の俺は自分に言い聞かせていたんだ。冗談じゃなく、俺くらい常識的な男はいないだろ」 「確かに常識的だ」 紫龍は、星矢の主張を 心の底から その通りだと思った。 いくら綺麗で可愛くて優しくても、男だとわかっている相手に 手が触れたり、見詰められたりするたびに どきどきするのは非常識だろう――とは、毫も思わなかった。 あの頃の城戸邸に、綺麗で可愛くて優しいものは、瞬以外にはなかったのだ。 あの頃の城戸邸にあったのは、醜くて 冷たくて残酷なものばかり。 他は乱暴だったり、捨て鉢になっていたり、捻くれていたり、諦め開き直ったりしている悪ガキばかりだった。 瞬に救いと希望を求めるのは、あの環境下では 極めて自然な流れだったと思う。 普通で、当たり前で、常識的。 星矢は 確かに、彼自身が主張する通り、紛う方なき常識人だった。 それは間違いない。 「なのに、常識を全く持ち合わせてない氷河の奴はさ、瞬が男だって知ってるのに、全く気にせず押せ押せで迫りまくり。別に、俺、自分を正当化するつもりはないけど、何つーか こう、わざと怪我して手当てしてもらってるだけなら、可愛いもんじゃん。そんなに非常識でもないし、綺麗で可愛い瞬に優しくしてもらえるのが嬉しくて、ほんわりするってだけ。でも 普通は、だからって、男の瞬に好きだなんて告白したりしない。男に告白するのも変だけど、そもそも 6つか7つのガキが、好きだの何だのって、10年早いだろ!」 「……」 星矢の常識では そうなのだろう。 16、7歳になる前から 春麗と育児を始めていた紫龍としては、星矢の常識に異論がないわけではなかったが、その異論を 今、星矢に告げる気にはならなかった。 今 星矢が 俎上に載せている非常識の持ち主は、龍座の聖闘士より もっとずっと非常識な男なのだ。 「10年早く、氷河の奴、『好きだ』って、瞬に告白しやがった」 「子供の頃に、瞬への告白を済ませていたのか、氷河の奴は」 それもまた、四半世紀を経て 初めて知る衝撃の大事実である。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士といっても、仲間の すべてを知っているわけではないのだ。 「ああ。瞬がアンドロメダ島に送られる日に、実に堂々と悪びれもせず 告白してやがったよ。だから、好きだから、必ず生きて帰ってきてくれって。瞬は氷河のために聖闘士になるわけじゃないっつーに」 「そうか……」 瞬は、氷河のために聖闘士になろうとしたわけではない。 それは、何よりもまず、瞬自身が生き延びるため。 そして、兄との約束を果たすため。 だが、アンドロメダ島に送られる瞬に、 『おまえを好きな俺のために、必ず生きて帰ってきてくれ』 と告げておくことで、氷河は、アンドロメダ島から生還した瞬に対して、 『瞬は、俺のために生きて帰ってきてくれた』 と思うことができた。 そう思っていると、瞬に思わせることもできた。 そんな氷河に対して、あえて、『違う、氷河のためじゃない』と言える瞬ではない。 アンドロメダ島から生きて帰ってきたことで、瞬は氷河に対して 奇妙な責任を負うことになってしまったのだ。 「常識家の俺は 常識的に諦めて、常識がない氷河は 瞬に非常識な告白して、そして、今があるってわけさ。絵に描いたように幸せな あの家族は、氷河の非常識が作ったものなんだ。世の中、おかしいだろ!」 「確かに……」 そういう事情と経緯があったとなれば、星矢も、幸せを絵に描いたような氷河一家の様子を眺めて、虚心に ほのぼの にこにこしてばかりはいられないだろう。 幼い頃から 瞬に対する氷河の好意は 明確に恋だったろうし、星矢のそれは恋ではなかっただろう。 少なくとも星矢は、それを“友だちの好き”以外の何かだとは思っていなかった。 四半世紀経った今も、それを“恋”だとは 星矢は認めないだろう――否、認めないのではなく、本当に恋だとは思っていない。 それでも――それでも、今の氷河の絵に描いたような幸福が、星矢は 少し癪なのだ。 自分が氷河ほど非常識な男だったなら、氷河が今 手にしている幸福は 自分のものだったかもしれないという、ひそやかな仮定文のせいで。 「……ある人間が 幸せかどうかといいうことは、その人間の主観が決めることで、世間の常識の物差しでは測れない。常識に縛られるのは ほどほどにした方がいいのかもしれんな」 『常識に縛られるのは ほどほどに』 『常識など無視しろ』と言い切れないところが、紫龍の常識にして良識だった。 「さすがの俺も、氷河ほど非常識になる度胸はねーよ」 「非常識で氷河に勝っても 自慢にはならん」 極めて常識的な意見。 アテナの聖闘士の幸福は、常識どころか 生死を超えたところにあるものだから、ある意味では、そんな ささやかな常識も大切な一つの宝だった。 幸福というものは、そんなふうに、どんなところにでも見い出すことができる光なのだろう。 Fin.
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