そこに。
「アンタ、こんな小さな子供に、毎日 頑張って生きろだの、でも食べ過ぎは駄目だの、なんて躾してんのよ」
そこに突然、瞬の躾に物言いをつける人間が一人 現れた。
自分の躾が正しいとは思わないが、玄関もドアも通らずに ふいに部屋の真ん中に現れて、よその家庭の子供の躾問題に口を挟む男よりは ずっと 心臓に優しい躾をしていると思う。
そう心の内で反論した瞬の前に、全く心臓に優しくない現れ方をしてくれたのは、先代の蟹座の黄金聖闘士、キャンサーのデストールだった。

「あら、橘の実のお菓子? 知ってる? 橘の実は不老不死の実なのよ。で、桃は不老長寿の実。どっちも 若さと美貌の維持に有効」
『こんにちは』どころか『いただきます』も言わずに、橘の実の菓子を一つ箱から摘み上げると、デストールは 歯で包み紙を破って、それを そのまま口の中に放り込んだ。
「あーっ!」
ほとんど反射的に、ナターシャが、非難の声を上げる。
が、デストールは、その非難に動じた様子は見せなかった。
『ごめんなさい』も言わず、むしろ開き直ったかのように、
「1個くらいいいじゃない」
で済ませようとする。

教育上、全く よろしくない。
よその家の子供の躾を云々言う前に、自分自身の躾を しっかりしてほしいと、本音を言えば 瞬は思ったのである。
オデカケが好きで、オデカケ先で 『お行儀のいいナターシャちゃん』と褒められるのが もっと好きなナターシャの方が、デストールより よほど礼儀をわきまえていた。
「欲しかったら、ちゃんと、『1個ください』って言わなきゃダメダヨ。パパとマーマとナターシャと星矢ちゃんで ちゃんと分けるつもりだったノニ!」
「はいはい。1個ください」
勝手に取って食べてから、許可を求められても どうしようもない。
デストールの順番が逆の振舞いに、ナターシャは、『むーっ』と唇を引き結んだ。

おそらく ナターシャは、10個並んだ可愛らしい橘の実のお菓子の姿を認めた時から、頭の中で、10個のお菓子を4人で分ける方法を あれこれ思案中だったのだ。
お菓子を2個食べる二人と 3個食べる二人(うち一人はナターシャ)をどう決めるかを。
それが、デストールのつまみ食いのせいで、4人で9個という、分けるのが極めて難しい数になってしまった。
お行儀の悪いことをする大人の悪びれなさに、ナターシャは すっかりご機嫌斜めである。

大人のマナー違反を許せない子供と、融通の利かない子供に謝るのが癪でならない大人の対決は、最終的に子供の勝利で終わった。
常に無条件で娘の味方の水瓶座の黄金聖闘士と、子供の躾には大人の手本が何より重要と考える乙女座の黄金聖闘士が ナターシャの味方についているのでは、さすがのデストールも 幼い子供の前に膝を屈するしかなかったのである。
髪の毛(ウイッグ)に霜がつき始めた時点で、デストールは賢明にも白旗を掲げた。
「そんな、ふくれっ面してると、癖がついちゃうから おやめなさい。美容にいいお菓子だったから、アタシの美貌を守るために、つい手が伸びちゃったのヨ。ごめんなさい。アタシが悪う ございました!」

それは 今一つ 心からの反省が感じられない謝罪だったのだが、『ごめんなさい』を言う人は 大きな心で許してあげるようにと、マーマに いつも言われているナターシャは、もちろん快く デストールを許してやったのである。
「ソッカー。ビボウを守るためなら、仕方ないヨネ」
と頷きながら。
そして、デストールはデストールで、ナターシャが『仕方ない』と思う理由が気に入ったようだった。
「アンタ、ガキンチョのくせに、大人の男の気持ちがわかってるじゃない。さすがは氷河と瞬の娘。ただ者じゃないわね」

『さすがは氷河と瞬の娘』は、ナターシャにとって、最上等の誉め言葉である。
その一言で、斜めになっていたナターシャの機嫌は 速やかに元の位置に戻った。
そして、デストールは、無事に 彼の本来の用向きに取り掛かることができたのである。
つまり、デストールは、ちゃんと用があって この場にやってきたのだ。






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