日本の6月は梅雨の時季。 降水量の多い この月の異名が『水無月』なのは、『無』が連体助詞の『の』が変化したものであり、『水無月』は『水の月』を意味しているから――という説が有力である。 ともかく、それは、水の月6月なのに 空に雲一つない、ある晴れた日のことだった。 場所は、東京駅に ほど近いところにある某ラグジュアリーホテルの小ホール。 城戸沙織の名で借りた小ホールの中央には円卓が一つ置かれていた。 ホテルのお仕着せを着たコンシェルジュが一人、ドアの脇にコートハンガーか観葉植物のように微動だにせず立っている。 円卓に着席している人間は四人。 彼等の前には、薄茶の入った茶碗と、紫陽花の花をかたどった涼しげな姿の和菓子が置かれていた。 四人のうちの一人は、薄紫のワンピースドレスを着たグラード財団総帥にして知恵と戦いの女神アテナでもある城戸沙織。 左に90度まわって、加賀友禅の振袖を着た30代半ばとおぼしき女性。 更に 左に90度まわって、その女性の母親である年配の女性。こちらは、灰紅色の三つ紋の色留袖を着用している。 四人目だけが男性で、山羊座の黄金聖闘士カプリコーンのシュラ。 事前に沙織から、そんなに堅苦しく考えることはないと言われていたので、スーツ未着用。 沙織の言葉を信じて、グレイのワイシャツ、黒のパンツという軽装だったシュラは、思い切り堅苦しい その場の空気に気まずさを覚えて、終始 顔が引きつっていたのだそうだった。 それは見合いの席だった。 そして、シュラは、その見合いの席に たっぷり5分間は座っていた。 沙織にせっつかれて、名前も名乗った。 友禅の女性は、自分では名を名乗らず、母親が紹介してくれた。 日本の“見合い”というシステムを知らなかったシュラは、いったい この後、何が起こるのだろうと、ひたすら不安な気持ちでいたらしい。 シュラの不安を払拭してくれたのは、本来なら喜ばしいものではない不穏な気配。 幸か不幸か、シュラは その時、実に不穏な気配を漂わせた何かが 地上に出現したことを感知したのだそうだった。 都内ではない。 だが、関東圏。 釈迦が極楽の蓮の池から地獄の血の池に垂らしてくれた蜘蛛の糸とばかりに、シュラは、その不穏な気配を漂わせた何かに飛びついたらしい。 「何か、不穏な気配がする。様子を見てきます。そのままバトルになって戻れないかもしれませんが、あとはよろしく。失礼します」 シュラは、その場にいた三人の女性にそう言うと、沙織の許可も得ずに、風を食らって その場から逃げ出した。 ――のだそうだった。 「あ……」 見合いの場で 見合い相手に逃げられてしまった友禅の女性は、何が起きたのかが 全く理解できていない体で、しばらく呆然としていたらしい。 付き添いの母親も同様。 ただ一人 沙織だけが、慌てもしなければ、怒りもしなかった。 もちろん、彼女に限って、呆然とすることもない。 「ほほほ。こんな調子ですのよ。でも、容姿、体格、声、雰囲気は確認できましたでしょ? 精悍な美青年と言えるのではないかと思っておりますの。もし彼が お気に召しませんでしたら、別の候補を――少し違うタイプの者を紹介させていただきますけれど」 むしろ、これくらい短時間の方がボロが出なくて好都合とばかりに、沙織の声は落ち着き払っていた。 慌てず騒がず、嫣然と微笑んで、“次”に言及する沙織に、友禅の女性が はっと我にかえる。 彼女は、そして、微かに震えるように、いやいやをした――らしい。 「ええ。沙織さんが おっしゃる通り、とても素敵な方で……あの……私は あの方が……」 父親が代表を務めているNPO法人で雑務をしたことがある他は 社会人として働いたこともない箱入り娘とはいえ、既に三十路に入った令嬢は、まるで思春期の少女のように恥ずかしそうに頬を上気させ、“次”は必要ないと、沙織に告げた――もとい、はっきり言葉にはせず“いやいや”で意思表示をした。 彼女は、シュラが お気に召したのだ。 彼女の好みを考慮して選んだ候補だっただけに、その展開に、沙織は いたく満足したらしい。 「それは よかったわ。今日は とりあえず、顔合わせという目的は果たせましたし、次は ゆっくり会える機会をセッティングしますわ。奥様も、それでよろしいでしょうかしら」 「健康そうな美丈夫。その上、沙織さんのご紹介となれば、わたくし共に 不満のあろうはずがありません」 見合いの当事者の母親はもちろん、当事者の令嬢ですら、沙織より5、6歳は年上である。 しかも、たった5分で見合いの席を中座した無礼な見合い相手。 それでも先方は、この見合いに、どんな不快の念も抱かず、いかなる不満も示さなかった。 むしろ、先方は母子揃って、この見合い話に 大層 乗り気のようだった。 ――というのが、山羊座の黄金聖闘士シュラが初めて臨んだ見合いの一部始終。 シュラから ほとんど説明になっていない説明を聞いた氷河と、沙織から かなり独断に満ち満ちた説明を聞いた瞬が双方の話をまとめて再構成したシュラの見合いの場面である。 シュラは、『会ってほしい人がいるから来るように』と言われただけで、それが見合いの場だとは知らされていなかったらしい。 もっとも 沙織は、それが見合いの席だということを 殊更に隠していたわけではなく、説明したところでシュラには理解できないだろうから説明しなかっただけのようだったが。 |