戦いのはじまり






恋心と性愛を司る神、エロス。
彼は極めて厄介な神である。
エロスは決して人間の敵ではない(決して味方でもないだろうが)。
彼は 黄金の矢と鉛の矢を用いて人の心を操る。
そうして、多くの人間を幸福にも不幸にもするのだ。
これほど厄介な神もない。

彼の黄金の矢に射られた者は激しい恋情に支配され、鉛の矢で射られた者は 恋を激しく嫌悪するようになる。
その矢の力は強力無比。神ですら、その力に抗うことはできない。
太陽神アポロンは、エロスの矢を子供の玩具と馬鹿にしたために、恋した相手に鉛の矢を打ち込まれて、手痛い失恋を味わうことになった。
エロス自身も、その矢の力から逃れることはできず、彼は誤って自らを黄金の矢で傷つけてしまったために、人間の娘プシュケーに恋をして、苦しむことになる。

エロスの黄金の矢が射抜けない心はない。
鉛の矢を拒むことのできる心もない。
力自慢の豪傑も、絶大な権力を誇る帝王も、賢明英邁な賢人も、思慮深い人徳者も、禁欲を旨とする宗教家も、富める者も貧しい者も、老いも若きも、男も女も、エロスの矢に抗うことはできない。
エロスの矢は、争う者同士を愛し合う者同士にすることもできれば、愛し合う者たちを離反させることもできる。
もちろん、互いに愛も憎しみも抱いていなかった二人の間に、愛や憎しみを生むこともできる。
エロスの矢をうまく使えば、騒乱も和睦も、復讐も祝福も、絶望も希望も、思うがまま。
それゆえ、エロスの矢は、神々が人間を支配する手段として 極めて有効な道具だった。

無論、愛の神エロスが射るのでなければ 矢は効力を発揮しないのだが、他の神がエロスに矢を射させることはできる。
エロスに矢を射ることを命じられるのは、彼の母である愛と美の女神アフロディーテと 神々の父ゼウス。
他の神々は、懇願したり、おだてたり、挑発したりして、エロスを その気にさせなければならなかったが、方法はどうあれ、エロスを 矢を射る気にさせれば、矢は射られる。
時折、エロス自身が、特段の理由もなく気まぐれに矢を射ることもあった。
おそらく、そういう時、エロスの矢の力を目の当たりにした人間たちが、『恋とは ままならぬものだ』と溜め息をつくことになるのだろう。



その日、エロスが黄金の矢を2本射たのは、大神ゼウスの命によるものだった。
1本は、北の国ヒュペルボレイオスの都に住む、氷河という名の青年に向けて。
彼は、ただ一人の肉親であり、世界中の誰よりも愛していた母親を 貧しさの中で亡くしたために、世界のすべてを空しく感じるようになってしまった不幸な青年だった。
母が死んでしまったというのに、自分は生き永らえている。
彼は、その事実を呪うかのように、自らの生を生きていた。

母亡きあとも彼が生きているのは、彼の愛する母の最期の言葉が、
「氷河、幸せになってね」
だったから。
息子が 生きて幸せになることを、彼の最愛の母が望んでいたから。
母の望みは叶えたい。
だが、ただ一人の愛する人を失ってしまった人間が幸せになるためには 何をすればいいのか。
その方法がわからず、彼は毎日を 沈んだ気持ちで、ただぼんやりと過ごしていた。
まだ若く、才に恵まれ、その上、ヒュペルボレイオスで最も美しい青年だというのに。
そんな氷河を、ゼウスは哀れんだのだった。

愛する人を失って不幸になった人間を幸せにするには、彼に 別の愛する者を与えればいい。
そのために、ゼウスは、氷河に黄金の矢を射るよう、エロスに命じたのである。
エロスはゼウスの命令に従い、黄金の矢を氷河めがけて射かけた。
狙い過たず、エロスの矢は氷河の胸を射抜いた。
確かに射抜いた。

にもかかわらず、氷河の心は、海でいるのをやめた湖のように 静かに動きを失ったままだった――彼の心には 何も起こらなかった。
彼は、エロスの黄金の矢に胸を射抜かれたというのに、恋に落ちなかったのである。
彼は、恋心と性愛を司る神の黄金の矢に胸を射抜かれてから、可憐な美少女にも妖艶な美女にも出会った。
もちろん、美少年や美青年にも出会った。
しかし、氷河は誰に対しても 恋の情熱にかられることはなかったのである。

彼の身に何も起こらなかったので、エロスは、今、この世界で 何が起きているのかがわからず、混乱した。



その日、エロスが射た2本目の黄金の矢の標的は、南の国エティオピアの都に住む、瞬という名の少年だった。
彼は、ただ一人の肉親であり、世界中の誰よりも慕っていた兄を 事故で亡くしてしまったために、悲しみの思いから逃れられなくなった不幸な少年だった。
しかも、彼の兄は、山津波に巻き込まれそうになった弟を救おうとして、その命を失ったのだ。
彼は、自分の残る命のすべては 兄への贖罪と鎮魂に捧げるためだけにあるものと信じて、自らの生を生きていた。

早くに両親を亡くした瞬は、幼い頃から 兄と二人で支え合って――主に、瞬が兄に支えられて――生きてきた。
泣き虫で引っ込み思案な瞬は、いつも兄の陰に隠れ、兄に庇われ、守られ、いつも兄の足手まといだった。
いつか兄の愛に報いたいと願い、報いることのできる自分になるべく日々 努めていたのだが、その願いも空しく、瞬は最後まで兄に守られ庇われるだけの存在だった――瞬が兄の愛に報いられるようになる日が来る前に、兄は死んでしまった。
自分の非力が悲しくて、こんな弟を持ってしまったばかりに不幸に見舞われることになった兄が悲しくて、瞬は 悲しみに暮れる日々を過ごしていたのである。
まだ若く、優しく清らかな心を持ち、その上、エティオピアで最も美しい少年だというのに。
そんな瞬を、ゼウスは救ってやろうと考えたのである。

そのために、ゼウスは、瞬に黄金の矢を射るよう、エロスに命じたのだ。
エロスはゼウスの命令に従い、黄金の矢を瞬めがけて射かけた。
狙い過たず、エロスの矢は瞬の胸を射抜いた。
確かに射抜いた。

にもかかわらず、瞬の心は、海風が陸風になろうとして凪ぐように 静かに動きを失ったままだった――瞬の心には 何も起こらなかった。
彼は、エロスの黄金の矢に胸を射抜かれたというのに、恋に落ちなかったのである。
彼は、恋心と性愛を司る神の黄金の矢に胸を射抜かれてから、可憐な美少女にも妖艶な美女にも出会った。
もちろん、美少年や美青年にも出会った。
しかし、瞬は誰に対しても 恋の情熱にかられることはなかったのである。

氷河だけでなく 瞬の身にも何も起こらなかったので、エロスは、今、この世界で 何が起きているのかが、ますます わからなくなり、恐慌状態に陥ってしまったのだった。






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