「アテナ。随分と楽しそうね。確かに とても面白い玩具だけれど、知恵と戦いの女神が、人間の逢引き現場を覗き見しているなんて、品位が疑われてよ」
「アルテミス オネエサマったら、人聞きの悪いことを言わないでくださる? 私は覗き見をしていたわけではないわ。私が教皇殿にやってきていることに気付かず、後からやってきた二人が 突然 楽しそうにファサードで いちゃつき始めてくれただけのことよ」
さすがに 知恵と戦いの女神と 狩猟と貞潔の女神が二人して息を殺し、人間たちの恋のじゃれ合いを盗み見ているわけにはいかないので、アテナは少々――否、かなり――悔しそうに、教皇殿を出てアテナ神殿に向かって歩き始めた。
アルテミスが、意味ありげな微笑を作って、アテナの隣りに並ぶ。

「私が知りたいことは、ただ一つ。あなたがエロスの矢の力を無効化したのかどうかということよ」
エロスの矢の力の無効化。
それができるのは、アテナ、アルテミス、ヘスティアの三処女神だけ。
アテナが氷河と瞬を聖域で預かると言い出した時から、アルテミスはアテナの関与を疑っていたらしい。
すべては あの二人をアテナの聖闘士とすべく、聖域に引き取るための策だったのではないか――と。
アテナが極めて微妙な――意味を探るのが実に難しい微笑を、その口許に浮かべる。

「エロスの黄金の矢に射られた途端、多淫症でも発症したかのように目の色を変えて 相手を追いかけまわすようになるなんて、浅ましいこと この上ないとは思わなくて? あの不器用な人間の恋人たちのように、自分が恋に落ちていることにさえ気付かず、頓珍漢な やりとりをしている二人の方が、どれだけ恋を楽しめていることか」
「じゃあ、やっぱり」
「――と、思ってはいるわよ。でも、残念ながら、私は何もしていないの。当然、あなたもヘスティアも何もしていないでしょうから、なぜ あの二人が神の力の影響を受けなかったのか、その理由を探ろうとして、私は二人を この聖域に呼んだ」
「アテナ。あなたは本当に何もしていないの?」
「ええ」

元はと言えば、人生に絶望している二人に生気を取り戻させてやろうというゼウスの厚意。
神々の中でも人間贔屓で知られているアテナが、あえてゼウスの親切の邪魔をすることは考えにくい。
つまり、アテナが何もしていないというのは事実だということである。
「では、神の力では支配しきれない人間が生まれつつあるのは事実――ということね」
神として生まれ、存在し、ゆえに当然 神の権威と力と地位の存続を望むアルテミスの表情は 危機感からくる憂いをたたえることになった。
だが、その瞳は、自分は決して滅び去る側のものにはならないという決意の光で輝いている。

「あの二人は、自分の意に染む恋人に出会うために、神の力を利用したのだとしか思えないわ」
神として生まれ、存在し、にもかかわらず 人間を愛し、その可能性に期待を寄せているアテナの表情は、アルテミスのそれとは対照的に、ひどく楽しげだった。
その瞳には、幼な子の成長を見守る母親の慈愛に似た温かさが宿っている。


神々の そんな種々に入り混じった思いを知りもせず、当の人間たちは 呑気なものである。
「俺は……俺自身はどうでもいいが、おまえには元気になってほしいんだ。そして、幸せになってほしいと思う」
「僕もそう思うよ。変だね。自分が生きる意味は見失ったまま、見い出せないままなのに、氷河には生き生きしていてほしいと、幸せになってほしいと思うんだ」
「ならば……俺はおまえの願いを叶えるため、おまえは俺の願いを叶えるため――二人で、もう一度生きてみるか」
氷河の提案は、瞬の瞳と唇に微笑を生ませた。
瞬が、氷河の右手に 自身の右の手を預ける。


「人は自分以外の誰かのために、自分も生きていたいと望む。生きる決意をする。もしかしたら、神様は 僕たちに そのことを教えるために、わざと力を発揮しなかったのかもしれないね」
神を畏れ敬うどころか(畏れ敬っているつもりで)、瞬は神を 自分たちに都合のいいものに変えてしまおうとしていた。
そんな人間のたくましさに、はたして 神は対抗できるのか。

知恵と戦いの女神アテナは 興味深げに瞳をきらめかせ、狩猟と貞潔の女神アルテミスの瞳の中では、ちらちらと怒りの炎が燃え出している。
神と人間の長い愛憎の歴史が始まろうとしていた。






Fin.






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