「こんな形で神託が実現してしまうなんて。ハーデスの悔しがる顔が見えるようだわ」 どこからともなく響いてくる女性の声。 その声に しばし遅れて、 「瞬、何があった !? 」 瞬の兄――イオアニナの国王が 怒声めいた声を伴って、塔の部屋の中に飛び込んできた。 そこにある声と気配が、自分が仕える高貴な女神のものと気付き、声と言葉を発するのをやめて、その場に姿勢を正し直立する。 瞬の兄に遅れて、氷河も気付いた。 「アテナ……」 その小宇宙が、本来 氷河が瞬に優先して仕えなければならない女神のものだということに。 氷河としては、それができそうになかったから、彼女の聖闘士になることを固辞したのだったが。 その女神が――姿は見えないが、女神の小宇宙は――ひどく楽しそうだった。 「先に結論から言うと、“我が物にする”というのは、その人を“幸せにする”ということよ。愛して、幸せにするということ」 『それは どういう意味なのか』と 瞬は問おうとしたのだが、問う時間を、アテナは瞬に与えてくれなかった。 「16年前、あなたが生まれた時の神託は、冥府の王ハーデスが下したものよ。ハーデスは、いずれ あなたと世界を我が物とするつもりでいたから。もちろん、私は、それを阻止するつもりでいるのだけれど」 「冥府の王ハーデス……」 「ええ、そう。ハーデス自身は、あの神託で、人間たちが あなたと世界を手に入れようとするなんて、考えてもいなかったのよ。世界を我が物にするなんて 神にしかできないことだと、人間たちは考える。当然、そう考える。ハーデスは そう思っていたの。あなたは 神であるハーデスのものになる宝だから、大切に育てるようにと命じたつもりの神託だったのに、人間たちは逆に争奪戦を始めてしまった。人間の謙虚さを信じていたハーデスが 初心すぎたと言えば 言えないこともないのだけれど」 冥府の王の清らかさ(?)に、知恵と戦いの女神(の小宇宙)は苦笑した――ようだった。 「結局 こうして、あなたを人間に奪われてしまったのだから、ハーデスは自分の首を絞めるために あの神託を発したといっていい。よりにもよって、この地上世界で 最も世界征服に興味のない人間に 瞬を“我が物にされ”た。しかも、それが形だけでも 私の聖闘士。ハーデスは今頃、冥界で地団太を踏んでいることでしょう」 そう言うアテナ(の小宇宙)は、今にも 祝祭円舞を一人で踊り出しそうな勢いで弾んでいた。 思いがけず、あまりにも容易に、ハーデスの野望を阻止できて、アテナは非常に機嫌がいいらしい。 「氷河は、アテナの聖闘士が 必ずしもアテナ第一主義でいる必要はないという、いい見本ね。何事も多様性が大事なんだわ」 ほとんど独り言のように そう言って、アテナは状況説明と祝福の大盤振る舞いをしてくれた。 「『その子供を我が物とした者が、この世界を己が手に収めることになるだろう』というハーデスの神託は、瞬。あなたが 世界を征服するほどの力を持ち得る人間だということよ。ハーデスは あなたを自分のものにするつもりで、あの神託を下したのだけれど、氷河が あなたの心を我が物にしたことで、彼の地上世界支配の計画は頓挫した。あなたは 世界を支配することに興味はないでしょうから、ハーデスの神託の件は、今日を限りに すっかり忘れてしまいまなさい。もし考えが変わって、世界の帝王になりたいと思うようになったら、その時は私が阻止します。あなたが おかしな野心を抱かない限り、あなたは あの神託から解放されたと考えて 差し支えないわ。あなたは自由よ。瞬、おめでとう」 そこまでの解説を終え、祝辞を述べてから、アテナ(の小宇宙)は氷河の方に向き直った。 「どう? 氷河。これで、瞬を不愉快な神託から解放し、自由にし、瞬を幸福にするという、あなたの望みは叶ったことになるわ。私の聖闘士でいるのも、そう悪いことではないでしょう? 私に感謝しなさいね」 得意満面なアテナ(の小宇宙)。 氷河は、だが、畏れ多くも オリュンポス12神の1柱、知恵と戦いの女神アテナ(の小宇宙)に対して、不満そうだった。 もとい、“不満そう”なのではなく、“明白に不満”らしかった。 「わざわざ聖域やオリュンポスにまで赴かずに済んだことは有難いし、懇切丁寧な解説にも感謝はするが、こういう場合は、ついでに瞬の身体の毒もどうにかしてくれるのが 神サマの務めというものだろう。そうしてくれたら、俺も、心からの忠誠をアテナに誓う気になるだろうに」 畏れ多くもオリュンポス12神の1柱、知恵と戦いの女神アテナ(の小宇宙)を、氷河は『気が利かない』と責めていた。 不敬を極めている氷河に、だが、アテナ(の小宇宙)は、腹を立てるどころか、一層 楽しそうに踊り弾み始める。 「『触れ合えなくても、愛し合うことはできる』なんて、格好のいいことを言っていたのに、やっぱり瞬に触れたいの?」 「当たりまえだ!」 氷河の正直な答えに殺気を帯びたのは、アテナ(の小宇宙)ではなく、瞬の兄だった。 アテナ(の小宇宙)が 瞬の兄と氷河の二人を意識して、どこか勿体ぶった口調(の小宇宙)で、衝撃の事実を告げる。 「瞬の身体は 毒に侵されてなどいません。あれは、瞬のご両親が 我が子を守るために、そう見せ掛け、そんな噂を流布したのよ。二人が生きていた頃、時折、従者を痺れ草に触れさせたりして、それらしい演出をしていたようね。瞬が長じてからは――あれは、瞬の小宇宙よ。瞬の小宇宙が我が身を守ろうとして、勝手に力を発揮するのを見た野心家たちが、勝手に それを瞬の持つ毒気のせいだと思い込んだだけのこと」 ――と、アテナが言い終わるより先に、氷河は瞬を抱きしめようとし、氷河が瞬を抱きしめるより先に、瞬の兄が氷河の身体を壁に叩きつけていた。 アテナの聖闘士としての力は、氷河より瞬の兄の方が はるかに上らしい。 「氷河! 兄さん!」 どちらに先に謝意を表しても、どちらに先に触れることをしても角が立つだろうことを、賢明にも察知した瞬は、氷河でも兄でもない 女神アテナに対して、感謝の言葉を奉じた。 「アテナ。ありがとうございます。こうして、アテナが ご光来くださらなかったら、僕は一生、不幸で哀れな毒人間のままでした」 瞬の賢明に、アテナ(の小宇宙)が満足げに微笑む。 兄が自分の肩に手を置くのを確かめてから、瞬は、壁に背を預ける格好で へたり込んでいる氷河の頬に、指で触れた。 氷河は、毒に苦しむ様子はない。 瞬の傍らには、瞬の兄がいる。 「瞬……」 初めて触れる瞬の指の優しい感触。 氷河の戦いは むしろ、今 始まったばかりである。 それでも、氷河は、ほとんど夢見心地だった。 「世界を征服した気分だ」 夢見心地で 瞬を抱き寄せようとして のばした氷河の腕は、すぐに瞬の兄に叩き落され、彼の前途が多難であることを、この上なく明白に示してくれたのだが。 “生きる目的”は、一生を かけてやっと叶うくらいが 丁度いい。 Fin.
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