the poor in spirit

 - ある謙虚のエピソード -






謙虚な人間というものが どんなふうにしてできるのか。
それは、傲慢な人間には なかなか 理解できないものだろう。
だが、卑屈な人間ができる仕組みなら、傲慢な人間にも すぐに察することができ、理解することもできるに違いない。

人に誇れる才もなく、人より秀でた力もなく、自分に自信を持つことができず、あるいは自信の持ちようがなくて、『どうせ、自分なんか』と、自身を卑下するようになる心理。
それなら、(おそらく)傲慢な人間にも容易に理解できる。
“傲慢”は、自分の能力を過大評価することで、“卑屈”は過小評価すること。
どちらも 一種の誤認なのだ。
自分は人より優れていると思うのも、人より劣っていると思うのも、方向が逆なだけで、内容は同じ。
傲慢と卑屈は そのどちらも、“自分を正しく見ることができず、ゆえに当然、自分を正しく評価できていないこと”である。

しかし、“謙虚”は違う。
謙虚は、“自分が他に劣ると思うこと”ではなく、“他人が自分より優れていると思うこと”なのだ。
そう思うがゆえに、言動が控えめになることを“謙虚”と言う。
傲慢は悪徳とされている。七つの大罪にも含まれる。
逆に、謙虚は美徳。普通は誉め言葉として用いられるだろう。
だが、その謙虚が、今、多くの人々に迷惑をかけていた。

瞬は謙虚な人間である。
そして、それは、誰もが認め、誰もが知っている事実である。
多くの美点や才能を備え 衆に優れた人間であるにもかかわらず、瞬が傲慢な人間にならなかった第一の原因は、彼の周囲に特殊な人間ばかりが揃っていたからだったろう。
ごく幼い頃から、高校生になった今でも、瞬の周囲には常に、非凡で特殊で特異な人間――つまり、普通でない人間ばかりがいたのだ。
そういう状況で、意識的にせよ、無意識的にせよ、日々、非凡な者たちと自分を比べていれば、その人間の自己評価は、『自分は平凡で、普通で、ごく一般的な人間である』というところに落ち着くもの。
瞬は そうだった。

瞬の自己評価が『自分は取るに足りない、詰まらない人間だ』というところにまで落ちなかったのは、それこそ、瞬の 衆に優れた多くの美点や才能ゆえ――と考えられる。
瞬は、彼の周囲にいる非凡で特異な者たちに比べれば 平凡だったが、一般大衆の中にあって、客観的尺度で測れば、極めて優秀な人間だったのだ。

ところで、瞬の周囲の特異な者たちが、どのように特異かというと。
(ちなみに、言うまでもないことだが、“特異”という言葉は、誉め言葉として用いられるとは限らない)
まず、瞬より2つ年上の兄が普通ではない。
僅か7、8歳の頃から、ほとんど伝説的に、彼は不死身と信じられてきた。
強い。喧嘩も強いが、とにかく その生命力が尋常ではない。
殺しても死なないのではないかと思うほど、強靭な肉体と精神力の持ち主。
それが瞬の兄だった。

早くに両親を亡くし、『泣き虫の弟を、自分が守ってやらなければならない』という気持ちから、実際よりも強い振りをし、いきがっていたのが、いつのまにか 地になったのだ――という説もあるが、その真偽は定かではない。
瞬の兄は、その顔立ちも、少女めいて優しい瞬とは正反対に野性的で、見事なまでの強面。

幼い頃から庇われ守られていたので、瞬は、兄と同レベルに強くなった今でも、兄は自分より絶対的に強く偉いと、ほとんど信仰のように信じている。
そういう人間が身近に一人いるだけで、人間は驕り高ぶることはしないもの。
瞬は、兄の存在によって、謙虚な人間になったと言えるかもしれない。

瞬の周囲の特異な人間二人目は、瞬より1つ年上の幼馴染みの氷河。
彼は日露ハーフという触れ込みだが、見た目は完全にコーカソイドで、金髪碧眼。
幼い頃、氷河の 光そのもののように輝く髪と 空の色の瞳に初めて出会った時、瞬は 氷河の容姿の美しさは、いわゆるモンゴロイドの美しさとは次元が違うと感じ、彼は自分より誰より 絶対的に美しいと信じることになったのだった。

氷河をそれほどに美しいと感じる瞬も、極めて端正な容姿の持ち主である。
瞬の顔立ちは、人種や民族を超えて、誰からも好意を抱かれるタイプの美しさで、造作、表情、印象、すべてが 優しく、どこか妖精めいている。
瞬と氷河を並べて、どちらを より美しいと感じるか、意見を募れば、人の好みはそれぞれであるにしても、6:4で、瞬に軍配が上がるだろう。
しかし、瞬は、氷河こそが誰よりも美しいと信じている。

事実 そうなのかということは問題ではない。
瞬は、そう信じているのだ。
瞬ほど見事な容姿の持ち主が謙虚でいられるのは、氷河の存在ゆえと言っていいだろう。

瞬の周囲の特異な人間三人目は、氷河と同じく1つ年上の幼馴染み紫龍。
彼は、堅物と言っていいほど 真面目で勤勉で誠実で堅実、品行方正で努力家。
“真面目で誠実”も、度が過ぎると 普通に変人になるという、見本のような男である。
彼の師に当たる人物が、彼の真面目振りを『詰まらん、詰まらん、ああ 詰まらん』と口癖のように言っているのだが、人を好意的に見ることしかできない瞬は、それを 人前で身内を褒められない老師なりの賛辞と解し、微笑ましく思っている。

“真面目で勤勉で誠実で堅実、品行方正で努力家”なのは 瞬も同じで、瞬は その上 更に、“誰に対しても公平で優しく、心身 清らか”等が加わるのだが、瞬は、『人徳で紫龍の右に出る者はいない』と信じている。
事実 そうなのかということは問題ではない。
瞬は、そう信じているのだ。
人に どれほど『優しい』『親切』『誠実』と言われても、瞬が自分を“いい人″だと思わず、謙虚でいられるのは、紫龍の存在に因るところが大きい。

そして、瞬の周囲の特異な人間四人目は、瞬と同い年の幼馴染み星矢。
星矢は、一見しただけでは――二度見しても、どこにも特別なところはない。
強さ、容姿、人格、どれをとっても、まさに普通。
これ以上ないほど普通。
だが、星矢は、物怖じしない陽性の人柄と 大胆な行動力の持ち主で、常に人々の中心におり、いつのまにか周囲の人間を振り回しているのだ。
客観的尺度で何かが優れているというわけではないのだが、求心力、影響力、統率力が備わっている星矢は、ある種のカリスマ性の持ち主なのである。
瞬の兄たちは、そんな星矢を“主人公体質”と評していた。

それは瞬には 全く備わっていない要素である。
瞬は、人の輪の中心、あるいは、先頭に立って、人を振り回したり、率いたりするタイプではない。
そうではなく――瞬は、誰かのために生きたい人間だった。
そういう意味では、星矢こそが、真の意味で、瞬にはない才を持つ、真に特別で非凡な人間なのかもしれなかった。

ともかく、自身を そんな兄や仲間たちに引き比べ、『自分は普通で平凡。これといった取りえもない』と考えて、瞬が謙虚な人間になったのは、ある意味、当然の成り行きだったのかもしれない。
瞬が卑屈な人間にならなかったのは、瞬が実際には衆に優れた才と美質に恵まれた人間だったからであるが、それ以上に、瞬の特異な仲間たちが、人を――瞬を――見下すような人間ではなかったからだったろう。

謙虚な瞬は、誰にでも優しくて親切な人間である。人当たりもいい。
人を疑ったり、誰かを憎んだり嫌ったりすることなどなさそうな善良な印象を 人に与えるし、実際に善良な人間である。
そんな瞬が、他人に利用されることが多かったのも、非常に残念なことではあるが、紛う方なき事実だった。

たとえば、怖い一輝に近付くために。
派手な氷河に近付くために。
お堅い紫龍に近付くために。
周囲を見ない星矢に近付くために。
非凡な特異キャラたちに直接アプローチする勇気や度胸を持ち得ない者たちが、彼等への仲介の労を取ってほしいと、瞬に頼み込む。
――と言えば聞こえがいいが、つまり、瞬は彼等に踏み台にされるのだ。

だが、そんなふうに瞬の人のよさに つけ込む者たちは、決して瞬を見下しているわけではない。
彼等は ただ、一輝、氷河、紫龍、星矢より、瞬の方が、親しみやすく優しく親切だと思っているだけなのだ。
していることは、“人(瞬)を道具(踏み台)として利用”。
しかし、利用している側の人間は、その事実を自覚していない。
それは、人間社会には よくあることだろう。

そういったことが頻繁にあったため、自分は そういう立ち位置の人間なのだと、瞬は、自覚すらせずに認め 受け入れていた。
自分は 人に求められる人間ではなく、求め与えられる役どころは、せいぜいが橋渡し。
そういうものなのだと、瞬は、いつのまにか決めつけ、信じ込んでいた。
それゆえ、誰かが瞬に近付いていくと、瞬は その人の目当ては自分以外の誰かだと考え、自分以外の人間への橋渡し作業に取り掛かる。
瞬と親しくなりたくて 瞬に近付いたにもかかわらず、その人間は いつのまにか一輝や氷河や星矢を紹介されているのだ。
瞬のその行動を婉曲的な拒絶だと誤解して、瞬目当ての人は瞬を諦める。
そんな奇妙な悲喜劇が、瞬の周囲では頻発していた。






【next】