氷河の誤解の原因は中原中也の詩―― 胃潰瘍で入院している瞬の患者が持ち出した中原中也の詩だったらしい。 それも、詩の内容ではなく――。 「あの『羊の詩』には、『安原喜弘に』と献辞がついていただろう。聞いたことのない名なので、安原喜弘とは何者なのか、調べてみたんだ。中也の親友だということはわかったが、作家でも 中也の親族でもないから、当然のことながら、安原に関する文献は ほとんどなかった。あるのは、中也のことを書いた文献ばかりで――」 それはそうだろう。 安原当人は、何を成したわけでもなく、その肩書きが“中原中也の友人”というのでは。 安原のことを調べるうちに、氷河は安原ではなく中也の人となりを知ることになり、作品を好きになれなかった中也の人柄まで嫌うことになってしまったらしい。 「中也は、いいところの ぼんぼんで、才走っていて、酒乱で、喧嘩早い男だったらしい。人に絡み、暴言を投げつけ、次々に友人たちと絶交し、対立し、皆に敬遠されて、敵を作って――」 「そうだったみたいだね」 であればこその中也の作風である。 中也の詩は、家族に愛され愛し、多くの友人との間に温かい友情を育んだ人間が書く詩ではない。 「安原は、中也の終生の友人だったが、中也の親友になったことで、その心労は大変なものだったらしい。『いつしか文学志向は捨て、筆は折った』と書き残している。中也なんて、自分勝手で甘ったれの酒乱男など さっさと見限っていれば、安原は 自分の夢を諦めずに済んだかもしれないのに」 「あ……」 そういうこと。 「人は 自分でも気付かぬうちに、人を傷付け、苦しめ、夢を諦めさせるようなことをする。中也が安原にしたようなことを、俺もおまえにしたんだろう。だから、おまえは 諦めたように笑ったのだと……」 「諦めたように笑った? 僕がいつ」 「俺が 胃潰瘍男の見舞いに行く計画をぶち上げて、結局 やめた時」 全く記憶にない。 諦めたように笑った記憶など、今から20年 遡っても、瞬の記憶の中には一つもなかった。 中也の詩を読んだ あの日、もし自分が本当に“(何かを)諦めたように”笑ったのだったとしても、それは 自分以外の誰かのせいで諦めた自分の夢に関して笑ったのではない。 そのはずだった。 ともあれ、氷河の誤解と消沈の理由はわかった。 氷河は自分を(彼が嫌いな)中也に重ね、中也の終生の友人である安原に瞬を重ねて、落ち込んでいたのだ。 自分の我儘が、瞬に夢を諦めさせたのだ――と。 「それは誤解」 瞬は、氷河に手を差しのべた。 リビングルームの2.5人掛けの長ソファは、瞬の隣りに空間がある。 しかし、氷河は、リビングルームのドアの脇から動こうとしない。 そんな氷河を見て、瞬は笑った。 微かな苦笑。 こんな笑みが、氷河に誤解を与えてしまったのだろうか。 それなら、星矢のように明朗に笑う癖をつけなくては。――と、瞬は思った。 「それは誤解だよ、氷河。あの時、僕が思っていたのは、そういうことじゃなくて――。中也は 多くの友人と敵対して、友達を失った。自分では気付かぬうちに、多くの人を傷付けて、友達に夢を諦めさせるようなこともした。でも、きっと それと同じくらい、自分でも気付かぬうちに、多くの人の力になって、多くの人を幸せにして、励ましたり 慰めたりしたんだろうなって思ったんだよ。氷河が僕に力をくれるみたいに」 確かに、氷河を中也に重ねたところはあったかもしれない。 そして、今 思えば、安原を自分に重ねたとしても、それは さほど突飛な思いつきではなかったのかもしれない。 しかし、それは決して、強烈な個性と才能を持つ友人のせいで自分の夢を諦めた人間としてではない。 そうではなく――幸せになる術を 友に教えてもらい、そのための力を友に分けてもらった人間として。 瞬は、氷河のために、何かを諦めたことは一度も、一事も、なかった。 「俺が? 俺は、そんな大層なもんじゃない」 「うん……。氷河は自覚していないだろうなって思ったんだ。自分が人に力を与えていること。僕も氷河から力を貰っている人間の一人だけど、氷河がいなかったら、多分 今のナターシャちゃんの笑顔はないよ。僕に 家族の一員である幸福をくれたのも、氷河だ。わかってる?」 「……」 氷河は、わかっていなかったのだろう。 自分が多くの人を幸福にしていることを。 もしかしたら、中也も知らなかった。 だから 彼は あんな詩を書いたのだ。 あんな詩を捧げられて、安原は、どんな気持ちになったのだろう。 怒ったか、喜んだか、それとも 嘆いたのか――。 氷河はわかってくれたようだった。 「そうか。俺が おまえに夢を諦めさせたんじゃなかったのなら、よかった」 夢を諦めさせるどころか。 ナターシャを立派で幸せな大人に育てあげるという新しい夢を(それは、瞬の新たな務めでもある)、氷河は瞬に与えてくれた。 おそらく、それもまた、彼自身は全く自覚なく。 瞬は笑った。 もちろん、“諦めたように”ではなく、朗らかに、楽しげに。 「で、氷河はどう? やっぱり、仰向けになって死にたい?」 瞬が差しのべた手に、氷河が今度は自分の手を重ねてくる。 「ん? いや、俺は できれば、おまえの腹の上で」 瞬に手を掴まれた氷河の身体が そのまま一回転して、床に叩きつけられる。 下の階も氷河と瞬の部屋なので、瞬は遠慮しなかった。 自分の部屋で、今日のお洋服を選んでいたナターシャが、ぱたぱた慌てた様子で リビングルームに駆け込んでくる。 「マーマ、何かあったの !? 今、すごい音がしたヨ!」 問うてから、ソファの足元に氷河が倒れていることに気付き、ナターシャは首をかしげた。 「うん。氷河が急に倒れちゃったんだ。夕べ、遅くまでお仕事をして、それで とっても疲れちゃったのかもしれないね」 マーマは笑っているから、氷河が命にかかわる重い病気でないことは確実。 これは、お医者さんごっこがマイブームのナターシャには、望んでもいなかった最高のシチュエーションだった。 「ワー! ナターシャ、パパを看病してあげルー!」 「氷河は少し頭が おかしくなってるみたいだったから、冷やしてあげるといいかもしれないね」 「了解ダヨ! ナターシャ先生が、パパに ひんやりぴたぴたシート貼付ダヨ!」 「ナターシャちゃんに看病してもらったら、氷河はすぐに元気になるよ」 「ウフフ。ナターシャ、お医者さんの才能 あるカナ」 夢を諦める術すら知らぬげに、ナターシャが嬉しそうに笑う。 パパは倒れているが、絵に描いたように幸せな家族団欒(?)。 パパが大好きなナターシャ。 ナターシャはマーマに守られ、パパに幸せにしてもらっている。 氷河と瞬も、ナターシャに たくさんの幸せをもらっている。 最期の時は やはり仰向けになって死にたい。 そして、楽しい思い出、幸せな思い出を たくさん思い出しながら死ねたらいいと、瞬は思った。 胃潰瘍内視鏡治療の患者の許には、週明けに、浪人中の息子が某統一模試での志望校A判定を手土産にして、母親と共に見舞いにやってきた。 見舞いに来るのが遅れたのは、土産の準備に手間取ったせいだったのだ。 会社関係の見舞客がなかったのは、夫人が、『見舞いより、円滑な業務遂行を』と言って、見舞い不要の連絡を入れたからだったらしい。 中也の詩で 反省することのできるような人間が、周囲の人に嫌われるわけがなかったのだ。 中也の詩は、詩人の意図から離れたところで、多くの人間の人生に貢献し、多くの人間の幸福に寄与しているようだった。 Fin.
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