ナターシャは いつから目覚めていたのか。
大人たちのやりとりを どこから聞き、どこまで理解しているのか。
それを確かめようとすると、藪を突いて蛇を出すことになる可能性がある。
氷河と瞬は、視線で(言葉を用いずに)黙っていることを確かめ合った。
言わぬが花。秘するが花。
やたらに言葉を使う必要はない。

お昼寝から目覚めたナターシャは、マーマの涙が乾いて 元気になっていることを認めて、安心したようだった。
心置きなく、ニコちゃんの話を始める。
「デイノケイルスのニコちゃんはパパみたいダヨ。何も言わずに戦って、ぴょこちゃんたちを守ったんダヨ」
「そうだね。ニコちゃんは 氷河みたいだね」
「ナターシャも、アテナの聖闘士になって、パパとマーマを守ってあげたいナ」
「なに?」

愛は眼差しで通じるが、言葉を用いなければ通じないこともある。
この問題は、氷河には、あらゆる武器と手段を駆使して、戦わなければならない問題だった。
氷河は、ナターシャに アテナの聖闘士などという超危険職業に就いてほしくなかったのだ。
「アテナの聖闘士にならなくても、ナターシャは元気に そこにいてくれれば、ただ それだけで 俺たちを支え、守ってくれているぞ」
「そうナノ?」
「そうとも。ナターシャが可愛ければ可愛いほど、俺たちは強くなる」

それは、『ナターシャが アテナの聖闘士になるのは絶対 反対。断固 阻止する』を別の言葉に置き換えたもの。つまり、詭弁である。
言葉は、そういう使われ方もするから、無条件に信じることのできない難しいツールなのだ。
『アテナの聖闘士になりたい』に比べたら、『恐竜博に行きたい』の方が、氷河には はるかに気軽に聞くことのできる ご意見ご要望だった。

「デイノケイルスが生きていたのは、今から 何千万年も前のことだ。今、恐竜はどこにも生きていない。恐竜博は、ニコちゃんも その子供たちも皆、昔々に死んでしまったことを知らせる展示会でもある。ナターシャは、それでも恐竜博に行きたいか?」
『それでも 行きたいか?』は、『それでも行きたいなら、連れていってやる』である。
ナターシャは 瞳を輝かせて、力いっぱい パパに頷いた。

「ニコちゃんも、ニコちゃんの子供たちも、みんな一生懸命 生きてたんダヨ。ナターシャは本物のニコちゃんを見たいヨ」
「骨だけになったニコちゃんを見ても、泣かないか?」
「ナターシャは 泣かないヨ。パパがニコちゃんの もふもふ縫いぐるみを買ってくれるカラ、全然 平気ダヨ!」
「む……」

ナターシャは、パパに、ニコちゃんの もふもふ縫いぐるみを買ってもらう予定なのだ。
悲しいことを忘れるために、そんな方法もあることを知らされて、氷河の口元は 僅かに引きつってしまったのだった。


言葉はなくても、愛はあった時代。
言葉があるために、真実の愛の伝え方が難しい現代。
恐竜博に行くのも、大騒ぎである。






Fin.






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