俺が自転車で転んで怪我をしたのは、俺自身にもどうしようもない その苛立ちのせいで、俺が ちゃんと前を見てなかったせいだったかもしれない。
配達を終えたあとでよかったよ。
それ以上に、人を巻き込んだ事故にならなくてよかった。
もし そんなことになってたら、賠償問題やら補償問題やら――俺は自転車保険に入ってなかったから、人に怪我をさせて、治療費を求められたりなんかしたら、大変なことになってただろう。

最悪の事態を免れられたのはよかったんだけど、その転倒で、俺の身体にガタがきた。
外傷は大したことなかったのに――外傷は、二つ三つの擦り傷と、転んだ時に道路にぶつけた二の腕に青痣が残ったくらいだった――5日 経っても、腕の痛みが消えなかったんだ。
さすがに心配になって、平日、会社を早退して、近所の大きな病院に行ったら、『当院は、紹介状を ご持参いただけませんと、選定療養費を五千円いただきますが、よろしいですか』ときたもんだ。

これまで風邪以外に 病気らしい病気をしたことがなくて、風邪は市販の風邪薬で治してきたから、病院っていうのが そういう仕組みになってるなんて、全然知らなかったぜ。
俺、小学生だった頃、他の病院の紹介状ももらわずに、何度か この病院に来た記憶があるんだけどな。
光が丘病院は、俺んちに いちばん近い病院だから。

まあ、昔の話は さておいて。
20数年間 病院の世話になったことのなかった俺が、わざわざ会社を早退して病院までやってきたのに、診てもらえないなんて……。
(ここで、紹介状があれば払う必要のない五千円を払えるほど、俺は太っ腹じゃない)
家に帰るわけにはいかないし、今から会社に戻ったって 仕事にはならないし、どうすりゃいいのか わかんなくて、俺は光が丘病院の庭のベンチに座って、ぼうっとしてたんだ。
近所の病院で診察もしてもらえないことへの苛立ちを抑えるには、病院内にいた方がいいだろうと思ったから。

病院には、俺より大変な病気を抱えた人もいるだろう。
そしたら、つらくて不幸なのは 俺だけじゃないって思えて、少しは 人生の平等ってものを感じられるかもしれないって、俺は そんな歪んだ期待を抱いていたんだ、多分。
ところが、俺より重病人どころか――院庭にあるベンチに座ってる人は ほとんどいなかった。
9月に入ったとはいえ、まだ暑いから――あえて 空調の効いた建物の中から 気温30度超の庭に出てこようとする病人なんているわけない。

そりゃそーだよ。
残暑厳しい この季節、炎天下のベンチに腰掛けて、紫外線を浴びまくってる俺の方がおかしいんだ。
ほんと、おかしい。
間違いなく、おかしい。

綺麗で幸せそうな家族を見て、『どんなに幸せな人間も、どうせ いつかは死んじまうんだ』と思うことで 不運な自分を慰め、それだけならまだしも、『早く、人類滅びろ。幸せな人間なんか、滅びてしまえ』ってな調子で、暗い願いを願う俺。
『どうせ人間は、みんな死ぬんだ』とか言いながら、自分が怪我をすると慌てて病院に来る俺。
完全に矛盾している。
俺がおかしいのは、痛みが取れない腕なんかより、頭の方だ。
俺はもう とっくに立派な狂人なのかもしれない。
そう思って、自分で自分に舌打ちをした時。

「ここは、直射日光がきついでしょう。ラウンジに、庭の景色を眺めながら掛けていられるベンチがありますよ。どうしても屋外がいいのなら、せめて 木陰のベンチに移りませんか? 診察にいらしたんですか?」
どこかで聞いた声が聞こえてきたんだ。
さらさら流れる小川の声。

これは、何の冗談なんだ? と、正直、俺は思った。
俺が生きてるのは 実は、ご都合主義が 大手を振って まかり通る三文ドラマの世界だったのか? って。
俺に声をかけてきたのは なんと、数日前にケーキ屋で会った、春の小川マーマだった。
しかも白衣を着てる。
ってことは、春の小川マーマは医者なのか?

俺は、俺に声を掛けてきた人を無遠慮な目で見詰め、胸中で超盛大な溜め息をついた。
恵まれてる奴は どこまでも恵まれてる。
美人で、頭がよくて、金持ちで、プライベートも充実してる、春の小川マーマ 改め 春の小川先生。
それにひきかえ、五千円が払えずに、病院の庭で ふてくされている俺。おそらく、春の小川先生より10歳以上年上。
さすがに不公平が過ぎるだろう。

まあ、そんな格差社会への憤りを、ここで春の小川先生にぶつけていくほど、俺も社会性のない人間じゃなかったけどな。
代わりに、俺は、春の小川先生に愚痴を言った。
年下でも、一応“先生”だから、それなりに丁寧語で。
「自転車で転んで、腕と肩を打ったんです。5日も経つのに痛みが引かないから、何かあるんじゃないかと心配になって病院に来たのに、紹介状がないからって追い返されて――。だから 今、『医者に診てもらえなくても、自然にしてりゃ、きっと治る』って、自分に言い聞かせてたところ」

これは愚痴っていうより、嫌味か皮肉だな。
けど、『医者なら、紹介状なんかなくたって、体調の悪い人間を診るのが務めだろ!』と怒鳴ることまではしないのが、俺の分別で社会性だ。
俺の嫌味に、春の小川先生が、申し訳なさそうな顔になる。
「すみません。医療機関の規模や特性で 役割を分担すべきだという考え方に基づいて――病床200以上の病院は そうするように、法律で 決まっているんです」

ああ。法律ね、法律。
すべては法律で決まってる。
医療機関の規模や特性で 役割を分担すべきだ――って、民間の小さな病院を潰さないために、患者の利便性を考えずに 医者同士で融通し合ってるってことだろ。
大した法律だよ。
おかげで、五千円払えない俺は、家にいちばん近い病院で怪我を診てもらうこともできない。
『医は仁術』なんて、江戸時代だけの話だよな。
当たりまえだ。
病院だって、金を儲けなきゃ、やってられない。

――と、思ったことが、顔に出たらしい。
春の小川先生が、ますます つらそうな顔になる。
俺だって、これが春の小川先生のせいじゃないことは わかってるんだ。
でも、どうしようもないんだよ。この憤りと やるせなさは。

「あの……打撲の痛みは、半月くらい続くこともありますよ。痛みが薄らぐ気配が全く なくて、逆に ひどくなるようなら、他の原因が考えられます。転倒した際、脳や腹部を打ちませんでしたか? 外傷ではなく内傷があるのかもしれません。血栓ができているということもあります。他には、細菌感染――怪我をしたところから、ばい菌が入った可能性も考えられます」
「ただで診察していいんですか」
素直に『ありがとう』って言えよ、俺。
親切な美人をいじめて、何が楽しいんだ。
いい歳して反抗的な態度の俺に、親切な美人は穏やかに浅く頷いた。

「この程度のことは、本やネットに載っている一般論です。個別の診療は、やはり地域の中小病院で診てもらってください」
「やっぱり、病院には行かなきゃならないのかー」
って、これは、嫌味でも皮肉でもなく、これから適当な病院を探す手間と、病院に行くために また会社を休まなきゃならないことと、治療代のことを考えて、すごく素直に(?)出た ぼやき。
溜め息が、おまけで ついてきた。

「どうせ人間は みんな、いつか死ぬんだ。最後には地球だって滅んで、種としての人類も滅ぶ。だから人間は 生きてたって意味ないんだって、常日頃から思ってるくせに、自分が怪我をすると慌てて病院に来て、医者に診てもらえないとわかると 腹を立てて――自分で自分を嘲笑ってたんですよ」
そんな 良識的でなくて投げやりな考え方って、こんなふうな かんかん照りの太陽の下でするのに ぴったりな話だろ。
『太陽が眩しかったから』って理由で 人を殺したイカれた奴もいたよな。
そいつの気持ち、俺には なんとなく わかる気がする。
春の小川先生は、そんなの全く わかりそうにないけど。

「人は皆、いつかは必ず死にますが、その生に意味がないとは言えないでしょう」
「でも、俺一人ならともかく、全人類もいつかは滅ぶのに。地球も、最後には消滅する」
「ええ。でも、ちゃんと病院に行って、診断は受けてくださいね。人間の命は、星のそれに比べたら、とても短いですけど、それでも、その時間を 少しでも快適に過ごしたいでしょう?」
そう言う春の小川先生の表情と声は、身体に不調を抱えた人間(俺のことだ)を心から気遣う人間のそれ。
でも、その瞳は、全く翳りを帯びていない。

なるほど。
幸せな人間は、俺ごときが思いついた浅い虚無主義なんかには動じないわけだ。
自分は 幸せに生きて、幸せに死ぬんだから、そりゃあ 文句はないよな。

あ、いや、でも、いわゆる成功者ってやつは、不老長寿を求めるものじゃないか?
俺の中には、金持ちや権力者ほど、生に執着するイメージがあるぞ。
『金は あの世まで持っていけない』っていうのは、自分が死ぬことなんて考えもせずに、財を蓄える金持ちへの戒めの言葉。
秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、あと、卑弥呼だって、不老不死を求めてたはず。
あ、それは、手塚治虫の『火の鳥』か。
信長がカッコいいのは、人間50年って 悟ってたからだよな。
秀吉みたいに老醜をさらさず、家康みたいな健康オタクでもないから。
って、これはゲームのしすぎか。

でも、春の小川先生みたいに、『幸せな人間は 殊更 死を恐れない』ってのが普遍的な真実なら、不老不死にこだわってた金持ちや権力者たちは、誰も本当の意味で幸せじゃなかったのかな。
だから 幸せになりたくて、そのために生き続けたいと願ったのかな。
『時よ、止まれ。おまえは美しい』は、ゲーテのファウストの最期の言葉。
人間は、幸せの絶頂で死にたいもの。
不老不死を手に入れたい人間たちは、つまり不幸なんだろう。
秦の始皇帝も 漢の武帝も、『こんな理不尽な世界、さっさと滅びてしまえ』と思いながら、だらだら 死なずに生き続けてる俺と大差ない不幸な人間だったんだ、きっと。
そう思えば、少しは、理不尽な格差社会への俺の憤りも薄れるってもんだ。






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