「パパ! マーマ!」
きっとナターシャちゃんは、俺の中にある残酷を確かに認めたんだ。
そして怖くなって、パパとマーマの庇護を求めて逃げ出したんだろう。
俺は、もちろん、慌ててナターシャちゃんを追いかけた。

その時、俺が考えてたこと。
それは、ナターシャちゃんを怖がらせたことへの後悔じゃなく、このことがケーキ屋のご主人に知れて、配達の仕事がもらえなくなったらまずい――っていう心配だった。
あんな小さな女の子を怖がらせておいて、俺が考えていたのは、ナターシャちゃんのことじゃなく、俺自身のことだったんだ。

ちょうど防災教室の講義が終わったところだったらしく、小ホールから受講者の大人たちが ぞろぞろと廊下に出てくる。
探そうとしなくても、ナターシャちゃんのパパとマーマの姿は、向こうの方から 俺の目の中に飛び込んできた。多分、ナターシャちゃんの目の中にも。
先に廊下に出てきた春の小川マーマの膝に、ナターシャちゃんが すがりつく。
そして、半分泣いている声で、ナターシャちゃんはマーマに尋ねた。

「マーマ! マーマ! ナターシャは生きてても意味がないの? いい子でいても、お利口になっても、可愛くなっても、何にもならないの? みんな死んじゃうから? 人は生まれてきても意味がないの?」
「ナターシャちゃん……?」
春の小川マーマは、ナターシャちゃんを追いかけてきた俺が ナターシャちゃんに何か言ったんだってことに、すぐに気付いただろう。
俺が病院の庭で会った男だってことにも気付いただろうし、あの時 俺が人も地球も滅ぶなんて暗い話をしてたことを忘れてはいなかっただろう。

『こんな小さな子に何を言ったの!』って、春の小川マーマに責められることを、俺は覚悟した。
防災教室の受講を終えて小ホールから出てきた、光が丘在住の善良な お父さん お母さんたち。
俺を追いかけてきたケーキ屋のご主人。
区民ホールの職員たち。
この人たち全員に、幼女を怖がらせて喜ぶ歪んだ性癖の持ち主と思われたら、俺は この先、この辺りでは暮らしていけなくなるだろうって思った。
『俺はロスジェネ世代の不幸な男だから、あんなこと言ったのは仕方なかったんだ』と訴えたところで、同情してくれる人はいないだろう。
俺は、国の宝である子供の心を傷付ける変態大悪党なんだ。

自分に投げつけられてくるだろう春の小川マーマと金髪イケメンパパの糾弾の言葉に 俺は怯え、その場に立ちすくんだ。
春の小川マーマは、でも、俺に一瞥をくれたきり、俺を責めてはこなかった。
俺を責めることより、ナターシャちゃんの心のケアの方が大事で、優先事項。
当たりまえだ。
そのケアの仕方が、俺には ほとんど想定外のやり方だったけど。

春の小川マーマは、
「人間は 誰でも、いつかは死ぬ。それは本当のことだよ、ナターシャちゃん」
って、言ったんだ。
ナターシャちゃんを抱き上げて、その顔を覗き込んで――こんな小さな子供に すごいことを言う。
普通は、『そんなことないよ』とか言わないか?
けど、春の小川マーマは、普通のことは――嘘は――言わなかった。
「でもね、ナターシャちゃん」
言いながら、春の小川マーマは ナターシャちゃんのパパを見た。
そして、ナターシャちゃんをパパの手に渡す。

ナターシャちゃんを渡された金髪イケメンパパは、自分の役目を承知していたんだろう。
『でもね、ナターシャちゃん』に続けるべき言葉が何なのか、わかっていたんだろう。
金髪イケメンパパは、ナターシャちゃんに、
「ナターシャは、生まれてこない方がよかったか?」
と尋ねた。

「……」
ナターシャちゃんが、パパの瞳をじっと見詰める。
ナターシャちゃんは、そこに映っている自分の心に探しに行ったのかもしれなかった。
やがて、ナターシャちゃんは、自分が探していたものを見付けたんだろう。
ナターシャちゃんは、パパの首に腕をまわして、ぎゅっとしがみついた。
そして、見付けた答えを、パパに報告したんだ。
「ナターシャは、生まれてきて、よかった。生まれてこなかったら、パパに会えなかった」
って。

ナターシャちゃんの答えを聞いた時、俺はなぜだか ほっとしたんだ。
本当に ほっとした。
そして、泣きたくなった。
俺は、幸せなナターシャちゃん親子を不幸にしたかったんだけど、失敗して――失敗したことに、心から安堵した。

パパに会えただけで、生まれてきた甲斐がある。
どうせ死ぬのだとしても、生まれてきてよかった。
大好きなパパに会えたから。
だから、生きている意味もある。

それがナターシャちゃんの死生観なんだ。
すごいと思ったよ。
俺には、子供の歳って よくわからないけど、ナターシャちゃんは多分 3歳か4歳。まず5歳にはなってない。
なのにもう、人生の達人だ。

「そうか」
ナターシャちゃんのパパが、自分にしがみついているナターシャちゃんの頭を撫でる。
生きることの達人たる幼い娘が可愛くてたまらないように――そりゃ、可愛いよな。
『パパに会えたから、生まれてきてよかった』なんて言ってくれる小さな娘。
なんて幸せな親子だよ、ったく。

「俺も小さな頃は――俺のマーマが死んだ時には、自分が生きている意味なんかないと思ったんだ」
「パパも?」
「ああ。俺のマーマが死んで、俺は一人ぽっちになった。優しい大人はいないし、つらいことばかりで、こんな世界は壊れてしまえばいいと思った。人間も全部 滅んでしまえばいいと思った。だが、生きていたから、俺は 瞬に会えた。生きていてよかったと思った。瞬が生きている世界は壊れない方がいい。人類も滅びない方がいいと思うようになった。その上、ナターシャにも会えた。いつか死ぬのだとしても、俺は生まれてきてよかった。生きていて本当によかったと思うぞ」
「ウン」
金髪イケメンパパ、意外に苦労人だったんだな。
優雅なヒモ生活堪能中なんて決めつけてたことに、俺は少し罪悪感を覚えた。

「僕も、氷河に会えた。ナターシャちゃんにも会えた。生まれてこなかったら、頑張って 生き続けてこなかったら、僕は氷河にもナターシャちゃんにも会えなかった。だから、どんなに つらくても頑張って生きてきてよかったと思ってる。ナターシャちゃんが、可愛い いい子のナターシャちゃんでいようとすることは、だから、とっても意味のあることだよ。ナターシャちゃんが可愛い いい子でいると、氷河が嬉しいからね」
春の小川マーマも、恵まれた人生を順風満帆で生きてきたんじゃなさそうな口振り。
そうだよな。
誰だって、生きてりゃ、つらいことに出会うよな。

「ウフフ。ナターシャは頑張るヨ!」
ナターシャちゃんだって、この人生の達人っぷり、打てば響くような賢さは、のんびり のほほんと生きてきた子供に養える力じゃない。
のんびり のほほんと生きてるのは、意外と俺の方なのかもしれない。
俺には なにしろ、『ロスジェネ世代だから』って、天下御免の免罪符が支給されてたから。

この世には、幸せな人間と不幸な人間がいて、幸せな人間は どこまでも幸せで、不幸な人間は どこまでも不幸だ。
俺はずっと そう思ってたんだけど、ほんとにそうだろうか。
案外 そうじゃないかもしれない。

『パパに会えたから、生きてきてよかった』
そんなふうに思える出会いが、俺にだって、あるかもしれない。
もしかしたら、俺が気付いていないだけで、既にあったのかもしれない。
人でなくても、物や、出来事。夢や希望。
花一輪との出会いも一期一会。
すべての出会いに価値があり、意味があり、喜びがあるんだって、どっかの偉い人が言っていた。

これからの俺の人生、そんな出会いがないとは言い切れない。
ナターシャちゃんとナターシャちゃんの綺麗なマーマ。
パパは怖いしイケメンだから除外するとしても、この綺麗で可愛い人たちに出会えただけでも、俺は 生まれてきてよかったと思えるから。
暗く悩むわりに、俺は単純な男なんだ。
明日から もう少し前向きに生きていくために――とりあえず ナターシャちゃんに 『ごめんなさい』と謝って、そして、ナターシャちゃんに『ありがとう』と言おう。






Fin.






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