「泣くな」
声が降ってきたのは、微かな秋の虫の音のカーテンが、まるで靄が立ち込めるように、城戸邸の庭を覆い始めた頃。
夕方と呼ぶには早いが、もはや昼間でもない、そんな微妙な時刻だった。
瞬とリンドウの花の横に、いつのまにか、黒いフードをかぶった背の高い男が立っていたのだ。
くるぶしまでの超ロング丈でないのが唯一の救いといっていい、ひざ下丈のフードつきの黒いコート。
そのフードを極限まで深く かぶって顔を隠している男。
これが怪しくなかったら、誰が怪しいのかと言いたくなるような、不審者の常套スタイルである。
どこかで感じたことのある気配。
しかし、それが誰の気配なのかは、瞬には わからなかった。
臆面もなく怪しさ全開の 彼の出で立ちに驚いて、瞬が ぽかんとしていると、その怪しいフード男は もう一度、
「泣くな」
と、瞬に言った。

怒っている声ではない。
脅す声でもない。
どちらかといえば、抑揚に乏しい静かな――穏やかな声。
そんなふうな声で言う『泣くな』は、『元気を出せ』と同義だろう。
瞬は そう判断した。
それでも 顔を見せない謎のフード男は怪しさ全開で怖いままだったが、今の瞬に 兄や仲間たちとの別れと死より怖いものは存在しなかったのだ。

「兄さんが、僕のせいでデスクイーン島に送られることになったの。そこに送られた人は、誰も生きて帰ってこれない地獄の島だよ。明日には みんなとも お別れしなきゃならない。きっと、もう会えない。僕は聖闘士になれずに死んじゃうから」
どんなに怪しく不気味でも、二度と会うことのない見知らぬ他人と思えば、だからこそ 言えることがある。
瞬は、自分に涙を流させている不運と不幸を、フード男に訴えた。

「そんなことはない」
怪しいフード男が、瞬の訴えを言下に否定する。
そして、彼は、フード付きコートの中から、手帳サイズの金属板――液晶画面が極端に大きい電卓のような機械(?)を取り出し、側面にあるスイッチのようなものを押した――ように、瞬には見えた。
しゃがみ込んでいた瞬を立ち上がらせ、フード男が その画面を、瞬の前に指し示す。

「これは、未来を映し出すことのできる機械だ。未来のおまえの姿を見せてやろう」
「未来を映し出す……?」
確かに見たことのない道具だが、未来を映し出すなんて、そんなことが 普通の人間にできるわけがない。
この人は魔法使いかしら。
魔法使いなら、いい魔法使いかしら。悪い魔法使いかしら。
悪い魔法使いなら、よくない未来を見せることもあるかもしれない――。

なにしろ こんな現実離れしたことを言う大人に会うのは これが初めてだったので、瞬は戸惑い、何も言えずにいた。
それを拒絶ではないと勝手に判断したらしいフード男が、瞬の目の前で、その金属製の手帳の表面を 手で撫でる。
途端に、その表面に、二人の見知らぬ大人と 一人の幼い女の子の姿が浮かび上がってきた。
まさに魔法である。

魔法の手帳に映っている大人の一人は金髪碧眼だった。
金髪碧眼の人間を一人しか知らなかった瞬は、何度も瞬きをしながら、その人の顔立ちを確かめたのである。
「これは氷河……?」
大人になった氷河――だろうか?
そう思って見れば、そう見えないこともない。
もし そこに映っているのが 彼一人だけだったなら、瞬は さほど迷いもせず、『これは大人になった氷河だ』と断じていたに違いなかった。
瞬を迷わせたのは、その魔法手帳に映っている小さな女の子の存在だった。

金髪の大人が 明るい笑顔の小さな女の子を、右腕に抱きかかえている。
女の子は、左手を氷河(?)の背にまわして掴まり、右手でVサイン。
そんな二人を、女の子がバランスを崩して落ちないように、女の子の脇に手を添えている もう一人の大人。
もしかしたら、これは大人になった自分なのだろうか?
幼い女の子を抱きかかえた金髪の大人が氷河なのであれば、年齢的に そういうことになる。
だが、氷河と明るい笑顔の小さな女の子 ――これほど不自然で違和感を覚える組み合わせが他にあるだろうか。

「こっちが大人になった僕なの……?」
この画像の意味が、全くわからない。
どういうシチュエーションなのか、なぜ こんな画像が 自分の未来として映し出されるのか、まるで わからない。
わかることが何もなくて混乱している瞬に、怪しいフード男は、
「これが、未来のおまえの姿だ。おまえは、幸せな家族の一員になるようだぞ」
と、画像の解説(?)をしてくれる。
「おまえは、綺麗で幸せな大人になるんだ。聖闘士になれずに死んだりしない」

怪しいフード男がそう言って、瞬の表情を確かめようとしたのか、上体を少し ひねって 前方に傾けてきた。
その弾みで、黒いフードの中から、金色の髪が ひとふさ、さらりと零れ落ちる。
(えっ)

その短い声を、実際に音として形作ったのだったか、それは瞬の胸中で響いた声にすぎなかったのか。
いずれにしても、瞬が その声を発した時には既に、怪しいフード男の姿は城戸邸の裏庭から消えてしまっていた。
『悲しんでいる君を愛す』
すっかり秋のそれになった庭の風。
そこには、群れて咲くことをしないリンドウが一輪、悲しげな色の花を、秋の風に揺らしているばかりだった。






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