俺は、あの時、瞬に甘えるべきじゃなかったんだ。
どんなに悲しく、寂しく、つらくても、おまえがいれば生きていられると答えるべきだった。
瞬のいない世界は どんなに美しくても、まやかしでしかないから。

日本語のポーリュシカ・ポーレ。
美しい幻。
ナターシャは、白鳥に似た恐竜を追いかけて 丘の向こうに行ってしまった。
「パパ、大好き」
その一言と、愛らしい笑顔だけを、幻の世界の俺に残して。

丘の麓。俺が マーマとナターシャのために建てたログハウスは、その扉の前に立つマーマと一緒に消えかけている。
俺がまだ幼かった頃、冷たい北の海に沈んでいったマーマの瞳と同じ瞳が 俺を見詰めていることが、こんなに離れているのに、俺には わかった。

俺が望めば、マーマが消えないことはわかっている。
俺が名を呼べば、ナターシャが戻ってくることも わかっている。
だが、それを望んではいけないことも、ナターシャの名を呼んではいけないことも、俺には わかっていた。

緑の世界。
生き生きと美しく、大地の生命力に満ちた緑。見渡す限り一面の緑。
爽やかな風が流れる草原。
マーマとナターシャとがいる幸せな世界。

この世界を消して、俺は瞬の許に戻らなければならない。
戻りたい。
瞬が泣いている。
ポーリュシカ・ポーレの歌のように、緩やかな幸せに浸っている俺を悲しんで。
俺は、この美しい夢から覚めなければならない。
そして、瞬に、『愛している』と告げる。
『おまえがいれば、俺は生きていられる』と告げる。
『おまえがいなければ、俺は生きていることにならない』と言うんだ。

美しい まがい物の この世界を忘れ消し去るために、俺は、幼い頃に覚えた ロシア語のポーリュシカ・ポーレを口ずさんだ。

   ポーリュシカ・ポーレ 燃える草原
   森の向こうから、雲のような敵意が押し寄せてくる
   だが、我等の馬は俊足。我等の戦車は迅速
   力強く歌い始めよう 我等の戦いの歌を


美しさもない、愛も幸福もない、民に戦いを強いるための歌。
だが、それが現実なら、俺は逃げない。
逃げる場所はない。
どんなに苦しくても、悲しくても、つらくても、瞬のいるところが、俺のいる世界だ。
その世界で、俺は生きていく。瞬を抱きしめて。






Fin.






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