「優しさと温かさと幸福感――瞬の微笑は そんなもので できていた。戦いと悲嘆と悲運と――そのほとんどが冷たく殺伐とした要素で構成されていた俺たちの人生に、突然 そんなものが飛び込んできたんだ。あいつが くらくらしても仕方ないかもしれん」 それが、事件発生直前の二人の やりとり。 法廷で、同情を誘うかのような声音で、氷河が呟く。 そんな氷河に、星矢と紫龍は、全く同感できないと言わんばかりに冷ややかな眼差しを向けた。 「『仕方ない』で済むなら、警察も裁判所もいらないんだよ」 「そういった個人的事情で 罪が軽くなることはないという事実は知っていた方がいいぞ、氷河。情状酌量されて軽くなるのは、罪ではなく罰だけだ。おまえの事情で、被害者の心が癒されることはない」 「……」 紫龍に非難されて黙り込んでしまったのは、どちらの氷河だったのか。 ともかく、氷河と瞬の間で、そういうやりとりが行なわれた後、事件は起きたのだった。 それまで、まがりなりにも 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士として、自分たちの これまでと これからを語り合っていた氷河と瞬。 その二人の内の一方が、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士でいることを突然――本当に突然、放棄してしまったのだ。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士でいることを突然 放棄したのは、もちろん、氷河の方である。 彼は突然、本当に突然、瞬に好きだと告白し、突然の告白に驚いて何も言えずにいる瞬を抱きしめ、唇を奪い、更に その先の行為に及ぼうとした。 瞬は 驚愕し、混乱し、恐怖し、氷河に対して、“つい反撃”(と、瞬は言った)してしまったのである。 そして、その場に氷河を残して 自室から逃げ出した瞬は、混乱と、気まずさと、恐れる必要もないのに消えない恐れのせいで 自室に戻る勇気を持つことができず、その夜を 城戸邸内の使っていない客用寝室で過ごしたのだそうだった。 「氷河がやらかしたことは、絶対に許されない重大な犯罪だとは思うけどさ。人を傷付けるのが嫌いな おまえが、氷河ごときに“つい反撃”なんて、まるで いつもの おまえらしくないっていうか、平常心を欠いてたっていうか。そもそも、おまえ、なんで、そんなに驚いて取り乱したんだよ」 「なんで、そんなに驚いて取り乱したんだ――って……。普通、驚いて取り乱すでしょう。これまで 命がけの戦いを共に戦ってきた仲間に、急に好きだって言われたら」 「急に好き――って、おまえ、なに言ってんだよ」 星矢の声が 呆れ疲れ脱力した人間のそれになったのは、『氷河が 仲間でも オトモダチでもないものとして瞬を好きなことなんか、その方面には全く疎くて鈍い俺でさえ知ってることだっていうのに!』という思いのゆえだったろう。 それは、“鈍感で売っている天馬座の聖闘士ですら知っていること”だったのだ。 “細かいことにも気が付く”で売っている、“目配り 気配り 心配りの人”瞬であれば、なおさら。 まさか 当事者である瞬が気付いていないはずがないと、星矢は 決めつけていた。 瞬は もちろん気付いていると、星矢は信じていたのだ。 だが、そうではなかったらしい。 「星矢、瞬は天蠍宮での氷河を見ていないんだから」 超鈍感な星矢が、紫龍に6年以上の遅れはとったにしても その事実に気付いたのは、天蠍宮での氷河を見たからだった。 何か よくない病気にでも罹っているのではないかと心配になるほど 大量の涙を流し、精神に異常をきたしているのではないかと疑いそうになるほど 感動過多、過剰感動。 あれが、幼い頃から好意を抱いていた相手に強烈な駄目押しを食らって、氷河の感情のダムが決壊した姿だったことを、星矢は 十二宮戦が終わってから、紫龍に教えてもらったのだった。 あの場面を 瞬は見ていないのだと 紫龍に言われ、あの場面を見て初めて氷河の恋心に気付いた星矢は、多分に不本意ではあったが、引き下がるしかなかったのである。 あの場面を見るまで、自分が気付いていなかったことを、『瞬なら、気付いていて当然』と主張するのは、理に適っていない。 氷河の『好き』は、瞬にとって、“急”のことだったのだ。 だから、瞬は、氷河から逃げ出し、自室に戻ったのは翌朝になってからだった。 気まずい思いで、瞬が自室に戻ると、氷河は まだ そこにいた。 瞬に“つい攻撃”されたにもかかわらず、立って歩けなくなるほどの負傷もせず、目覚めていた――目覚めたばかりのようだった。 そして、氷河は、不思議そうな顔をして、 「瞬、なぜ 俺は ここにいるんだ?」 と、瞬に尋ねてきた。 彼は、昨夜の自分の言動を全く憶えていなかったのだ。 記憶喪失になるほど ひどく頭を打ったのかと、瞬は まず その可能性を考え 案じたのだが、事態は そう単純なものではなかった。 「おまえのいるところが、俺の帰るところだから、リラックスしすぎて 眠ってしまったか」 氷河は悪びれる様子もなく笑って そう言った。 つまり 彼は、夕べのことを――昨夜、彼が瞬と交わした言葉の内容を――憶えていたのだ。 憶えていないのは、瞬に『好きだ』と言ったこと、その後の自分の行動と、瞬の抵抗。 この法廷が開かれることになったのは、自分が“つい反撃”してしまったせいで 氷河の脳に何らかの支障が発生してしまったのではないかと案じ、沈んだ面持ちでいた瞬に気付いた星矢が、その訳を瞬に問い詰め、白状させることに成功したから。 一方的でない傷害事件の単純な(?)刑事裁判になると思われた この法廷が、予想に反して 妙に ややこしいものになったのは、『自分の中には もう一人の自分がいる』という、氷河の衝撃的な告白のせいだった。 |