「お茶……お茶、いれてくるね。お煎茶。今朝、メイド頭さんが、亥の子餅をいただいたって言ってたから、分けてもらってくる」 腹ごしらえをしてから 戦に向かう星矢とは逆に、瞬は 心配事があると空腹を忘れるタイプらしい。 瞬が そう言ってラウンジを出ていったのは、瞬の胸中にあった心配事が消えたから――だったろう。 瞬が席を外してくれたので、瞬の仲間たちは 心置きなく 氷河をなじることができるようになった。 「自分の暴行をごまかすために、二重人格の振りするなんて、狡猾の極致、卑劣の極み! おまえ、仮にも 正義の味方だろ。それ、アテナの聖闘士として、どうなんだよ!」 「罰を逃れるために精神鑑定に持ち込むなど、まともな悪党なら、恥ずかしくてできないことだ。おまえは 立派な恥知らずの悪党だ。別人格がメモを残しているなどという、尤もらしいらしい嘘を、咄嗟に よく思いついたものだ」 氷河に演技力があったことも、咄嗟に いかにも それらしい嘘を思いつく機転が彼に備わっていたことも、星矢と紫龍には 極めて思いがけないことだった。 恋ほど、人間の価値観を変え、人間そのものを変えるものはない(だろう)から、そういうこともあるかもしれないが、『クールに見える外見とは裏腹に、氷河ほど嘘をつけない男はいない』というのが、彼等の抱く氷河の人物像だったのだ。 氷河が 不愛想で ぶっきらぼうなのは、彼が嘘をつけない男だからである――というのが。 そして、氷河の幼馴染みでもある星矢たちの その認識は、ある意味では 間違っていなかったらしい。 氷河は――氷河もまた、瞬が席を外してくれたので、真実を語ることができるようになったようだった。 「俺が多重人格者だというのは事実だ。瞬に受け入れてもらえなかったショックで、俺の中に もう一人の俺が生まれた」 『それは いったいどういうことなのか、詳しく説明しろ』を、星矢が、 「へ?」 の一音に凝縮してのける。 その強烈な省略が、氷河には ちゃんと通じた。 「マーマの死にも カミュの死にも アイザックの死にも耐えられたのに、俺の心は、瞬に受け入れてもらえなかったショックには耐えられなかった……」 「え……いや、でもさ……」 それは、身内の死の衝撃に耐えられず、その事実から逃れるために別人格を作り、瞬に慰められ、瞬に好意を抱くようになった別人格たちは“嘘”だが、瞬に拒絶されたショックに耐えられず別人格を作り出してしまったのは“嘘ではない”ということなのだろうか。 であればこそ、身内の死の衝撃が自分の中に別人格を作ったという嘘を思いつくこともできた――ということなのか。 「でもさ、多重人格って、そんなに簡単になるものなのか? おまえ、双子座でもないくせに」 結局 星矢の疑念は そこに戻るらしい。 双子座ではなく白鳥座の青銅聖闘士は、星矢の疑問に あっさりと頷いた。 「おそらく 一輝の幻魔拳のせいで、俺の脳神経は かなり不安定になっているんだ。――ということに、さっき気付いた。瞬が俺の多重人格に過剰に責任を感じているのは、俺の病気を兄のせいだと思っているからなんだと」 だから、多重人格は嘘ではないが 嘘だったと、氷河は瞬に言った――のだ。 瞬に、瞬が感じる必要のない責任や負い目を負わせないために。 そういうことなら、これまでの 訳のわからない氷河の言動にも 合点がいく。 氷河は そう振舞うしかなかったのだ。瞬のために。 「んでも、てことは、つまり、おまえは多重人格のまま、問題は何も解決してないってことじゃん」 「俺は、瞬が俺を嫌わずに、俺の側にいてくれれば、俺が二重人格だろうが三重人格だろうが、そんなことはどうでもいいんだ」 「それは そうかもしれないけどさ」 「心配無用。俺は どんな手を使っても、必ず 瞬を俺のものにする。それが成れば、俺の別人格は 別に存在する必要がなくなって、俺の病は完治する」 仮定でも、希望でも、予測でもなく、断言断定である。 単純明解で全く迷いのない氷河の将来の計画、人生設計。 氷河なら やり遂げるのだろう。 それ以外の未来が見えない。 氷河の病は双子座の病ではなく、恋の病だったのだ。 瞬に僅かばかりの同情を覚えつつ、だが、瞬のためにできることも思いつかず、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士は 深く長い溜め息をついたのだった。 Fin.
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