病室内では、車椅子に座った病人が頬を涙で濡らし、前のめりになって ナターシャを睨みつけていた。
アタタタ山のおばちゃん こと西園寺夫人が、病人を背後に庇い、床に座り込むようにして、病人とナターシャの間に割って入る。

「ナターシャちゃん。真奈ちゃんは悪くないの。悪者じゃないの。真奈ちゃんは、ほんとは ナターシャちゃんと同じくらい優しい子なの。私が看護師のくせに、真奈ちゃんのお母さんになりたいって思ったのが いけなかったの。私は、その前に、真奈ちゃんのほんとのお母さんが どんなに真奈ちゃんの幸せを願っていたかを、真奈ちゃんに教えてあげるべきだった。真奈ちゃんは 死んだ人のことを思い出すのは つらいだろうって決めつけて、何も言わずにいた私がいけなかったの。ナターシャちゃん。ナターシャちゃんが やっつけなきゃならない悪者は、私の方なの……!」
ナターシャを見詰める優しい人の瞳に、見る見る 涙が盛り上がってくる。

「おばちゃんは、ナターシャに優しくしてくれタヨ……」
正義の味方が、悲しい病人と優しいおばちゃんを泣かせてしまった。
ナターシャは賢い子なので、自分が二人の優しい人たちを傷付けてしまったことに すぐに気付き、自分が大きな間違いを犯してしまったことを はっきり自覚したようだった。

「ナターシャちゃん」
「マーマ……」
悪者でなくなった病人と、自分こそが悪者だと言い張る優しい人に、正義の味方は どう振舞うべきなのか。
幼い正義の味方は、それが わからず――瞬が差しのべた両手の中に飛び込んできた。
そして、瞬の胸の中で、わんわんと声を上げて泣き出す。
「マーマ……マーマ! ナ……ナターシャは、アタタタ山のおばちゃんのために悪者をやっつけに来たのに、わ……悪者がどこにもいないよお……っ!」

正義の味方の戦いに失敗したナターシャ。
そんなカッコ悪い姿をパパに見せたくなくて、“人の気持ちを わかってあげられないナターシャ”とパパに思われることを恐れて、ナターシャは氷河ではなく瞬にしがみつき、瞬の白衣を涙でぐしゃぐしゃにしている。
大好きだから――ナターシャは、パパに嫌われることが 何より怖いのだ。
人の心というものは、大人も子供も――誰の心も、実に 繊細で複雑で微妙である。

西園寺夫人と彼女の義理の娘も そうだったのかもしれない。
ちょっとした すれ違いが、時を重ねるうちに、大きな乖離を生んでしまっただけで。
ナターシャと ナターシャのパパとマーマは、幸い そんな すれ違いを生まずに済んでいた。

「そうだね。悪者はどこにもいないね。みんな 優しい人ばっかりだ。ナターシャちゃんも、優しい心を持った いい子だよ。ナターシャちゃんは、優しいおばちゃんが悲しいのが つらかったんだよね? だから 助けてあげようとした。氷河は ちゃんとわかってるから、安心して」
言いながら、瞳を涙でいっぱいにしているナターシャの身体を氷河の手に渡す。
「頑張ったな、ナターシャ」
「パパ……」
氷河の言葉と眼差しに安心したらしいナターシャは、また新しい涙を生み、そして、彼女はパパの首に両腕をまわして ぎゅっと しがみついた。

「みんな 優しい人ばかりだから……だから、守るんだよ。正義の味方は、地上世界に生きている すべての人を」
正義は、同時に複数存在し、それらは対立し合うこともある。
その事実を学ぶには、ナターシャは あまりに幼すぎるだろう。
今は、“だから、すべてを守る”でいいと思う。
実際も その通りなのだから。



翌日、西園寺真奈の病室を訪ねた瞬は、病気の少女から、
「新しい お母さんを、どうしても『お母さん』とは呼べないので、ナターシャちゃんに倣って、『マーマ』と呼ぶことにしました」
という報告を受けた。
『ナターシャちゃん、ありがとう』
ナターシャに そう伝えてほしいと、これは母と娘の両方から。

ナターシャは、いっそ すがすがしいほど見事に 悪者をやっつけ損なってしまった。
だが、優しい人の幸福を願うナターシャの気持ちは、優しい人たちの心に ちゃんと通じたのだ。






Fin.






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