「協力したいのは山々なんですが、僕の勤務先は副業禁止で――」
「そんな心配は無用よ。副業だなんて、とんでもない。もちろんタダで――いえ、ボランティアで出演してもらうわ。才能ある子供たちを啓蒙するための動画出演で 報酬をもらうなんて、そんなことは あなたのような愛他主義者には かえって心苦しいことでしょう」
聖母マリアか慈母観音か。
言葉ではなく 慈愛に満ちた微笑で『あなたの善意を信じている』と告げ、沙織は瞬にタダ働きを要求してきた。
『“大善”は“非道”に似たり』と よく言うが、今の沙織がそうなのだろうか。
それとも、これは単に『“非道”は“非道”』、権力者の我儘でしかないのだろうか。
瞬には 判断ができなかった。

「なぜ僕なんです。僕は特に音楽に関心があるわけでもないですし、造詣が深いわけでもありません。最近 僕が関わっている音楽といったら、ナターシャちゃんと一緒に歌う『ぶんぶんぶん』だの『靴が鳴る』だの『真っ赤な秋』だのくらいのものですし――」
「それはもちろん、見映えの問題」
「……」

しれっとした様子で告げられた沙織の答えに、瞬は思わず 息を吞んでしまったのである。
まさか、そんな問題(?)だったとは。
冗談にも ほどがある。
本気なら、正気を疑う。
沙織が冗談で そんな計画を持ち出したのだとしても、本気で言っているのだとしても、瞬としては 沙織の その言葉に 憤らないわけにはいかなかったし、実際に憤った。
だが、沙織は どうやら大真面目らしい。

「プロのパートは、維納フィル常任指揮者の緒座和聖治が、こちらもボランティアで協力してくれることになっているわ」
「緒座和聖治って、あの緒座和聖治ですか? 音楽の“お”の字も知らない僕でも知ってるくらい有名な世界的指揮者じゃないですか!」
「ええ、その緒座和聖治よ。世界のオザワ。知っているなら、話は早いわ。世界のオザワは、髪の毛がぼさぼさの、ライオンのたてがみが ひっからまったような、ベートーベンがパーマをかけたような、いかにも 身なりを構わない変人の天才芸術家っていう風体をしているでしょう? そして 今回、我々が求めているのは、同じ曲、同じオケで、世界のオザワとは全く印象の異なる作品を作り出してくれる人。となると当然、素人パートには、世界のオザワと対比して映えるキャラ――彼とは対照的な、すらりと細身の超清純派美少女が最適ということになるの」

なぜ、『となると当然』『すらりと細身の清純派美少女が最適』なのか。
沙織の主張は、ほぼ論理が破綻していた。
とはいえ、もちろん 今 最も問題なのは、沙織の発言の論理の破綻よりも、
「誰ですか、その超清純派美少女というのは」
ということだった。
その答えが、
「マーマでぇーっす !! 」
ナターシャから返ってくる。

ナターシャは、その声だけでなく、心も身体も すべてが期待と喜びで弾んでいた。
今にも城戸邸の客間で踊り出しそうな勢いである。
瞬が みんなのリーダーになって 綺麗な音楽を奏でることが、ナターシャには それほど 楽しく嬉しく 喜ばしいことであるらしい。
ナターシャは完全に沙織の味方についてしまっていた。

「世界のオザワは、『日本人指揮者といえば、オザワ』という状況を打破したいそうなの。現況が そうだということを、オザワ自身も かなり以前から自覚していて、彼は その状況を憂えている。世界のオザワも、もう80。次の世代の台頭を――彼は、日本人独特の感性を有する世界市民な指揮者の登場を期待しているの」
「緒座和さんや沙織さんのお気持ちは わかりますし、僕にできることがあるのなら協力もしたいと思います。でも、オーケストラの指揮なんて、素人にできることではないでしょう」
「人間ですらない メトロノームにもできることよ」
「僕にはメトロノームと同じことはできませんよ。無理です」

『せーの!』と 演奏開始の時を告げ、同じテンポを示し続けることは、メトロノームにもできるだろう。
メトロノームにこそできるだろう。
しかし、瞬は、機械ではない。
機械のように正確に同じテンポでリズムを示し続けることはできない。
もちろん、全くの素人である瞬には、世界的天才指揮者の真似もできない。
瞬は、機械でも天才指揮者でもないのだ。
しかし、沙織が求めているものは、まさに、機械でも天才でもない存在だったのらしい。

「60分も74分もかかる交響曲を指揮しろというのじゃないの。今、候補として考えているのは、サン=サーンスの『白鳥』。演奏時間は、指揮者の指示するテンポにもよるけど、2分40秒から3分といったところ」
「沙織さん……」
沙織の論理は、ここでも間違っている。
『60分ではなく3分だから できる』は明確な誤り。
『3分できるなら、60分もできる』が正しい。
そして、瞬は、60分が3分でも、オーケストラの指揮など できる気がしなかった。
だが、苛烈なまでに厳しいアテナは、挑戦すらせずに諦めることを、彼女の聖闘士に許さなかったのである。

「そう難しく考えることはないわ。氷河とナターシャちゃんと一緒に 声を揃えて『ぶんぶんぶん』を歌う時と同じよ。オケのメンバーに、『せーの!』で曲の演奏開始の時を知らせて、曲のテンポを 手を振りながら示す。それだけ」
「それだけ?」
「あとは、軽快な『ぶんぶんぶん』にしたいのか、流麗な『ぶんぶんぶん』にしたいのか、攻撃的な『ぶんぶんぶん』にしたいのか、優しい『ぶんぶんぶん』にしたいのか、そのイメージをオケのメンバーに伝えるだけ。そして、そのためにどういう演奏をするか、楽器の演奏の強弱や調子を指示する。それだけよ」
「それだけ――って……」

『それだけ、それだけ』と『それだけ』と繰り返し軽く言ってくれる沙織に――自分がオーケストラを指揮することではなく、楽観的にすぎる(ように思える)沙織に――瞬は不安を禁じ得なかった。
しかし、沙織は どこまでも楽観的である。
「本当に それだけなのよ。『ぶんぶんぶん』と同じ。ナターシャちゃんと『ぶんぶんぶん』を歌う時、あなたはナターシャちゃんに元気で明るくなってほしいと願って、その願いにふさわしい速さと曲調を選んで歌うはず。同じことを、蜂じゃなく白鳥ですればいいだけ」
言いながら、沙織が、『30分でわかる基本の指揮法』のDVDを瞬に手渡してくる。
瞬に、もはや逃げ場はないようだった。

音楽とは、芸術とは何なのか。
瞬は思わず、深い懊悩に囚われてしまったのである。
アテナとナターシャの攻撃に ほとんど屈し、だが、瞬は最後に ささやかな抵抗を試みた。
「僕にとっては、曲にもよりますが、音楽というものは――いえ、芸術全般は、人の心から闘争心を消し去り、穏やかにし、幸福に導くものです。そうあってほしいと思っています。それが 僕の芸術の目的で、存在意義です。僕が曲の指揮をしたら、その演奏を聞いた人は、刺激がなくて詰まらない、退屈で面白味がないと感じることになるのじゃないかと思うんです」
「刺激を求め、対立と争いを求めて?」
「……ええ」
「でも、あなたは、退屈で面白味のない平和を求めるのね?」
「そうです」
瞬の沈みがちな声の返答を聞いて、沙織は微笑んだ。
もしかしたら それは、彼女が今日初めて 虚心に浮かべた微笑、自然に浮かんだ微笑だったかもしれない。

「それなら、それでいいのよ。その演奏で、大衆は指導者によって――いいえ、聴衆は指揮者によって、同じオーケストラがどれだけ違う演奏をするのかを、より明瞭に知ることになるでしょう」
沙織の初めての、本当の微笑。
瞬は、その微笑に抗し得なかった。






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