「こんなに大きなお城に、二人きりでいるのは、お寂しいのでは?」 「そのような感情よりも、醜悪なものや不快なもののために 時間を割かずに済むことの方が大事です。瞬様のように 美しい お客様だけならいいのですが、そうとは限りませんから」 「……。お客様は多いんですか? どんな方が訪ねていらっしゃるんでしょう?」 「さほど多くはありません。直近では、1年ほど前に、竪琴の名手がやってきて、見事な演奏を聞かせてくれました。恋人を亡くしたばかりで、傷心を癒すために、ハーデス様の許を訪ねてきたのだと言っていましたが」 恋人を亡くした傷心を癒すために、ハーデスの許を訪ねてきた――とは、どういう意味なのだろう。 まさか亡くなった恋人がハーデスに似ていたわけでもあるまい。 瞬が不思議に思ったことに関して(それは誰でも不思議に思うことだと思うのだが)、パンドラは何も説明してくれなかった。 「あの者は、できることなら 恋人を生き返らせたいと言っていた」 「お気の毒です。結局 その方はどうされたんですか?」 「まだ、未練がましく この付近をさまよっているのかもしれません。決意することができずに」 「決意とは、何の決意です?」 パンドラの話を、どんな引っ掛かりも淀みもなく すんなり理解してしまえない自分(の脳)に、何か問題が生じているのだろうか。 それとも自分は、ハーデスに関する極めて重要な情報を知らずにいるのか。 そのせいで、自分はパンドラの話をスムーズに理解できずにいるのか。 パンドラが何か言うたびに、胸中で首をかしげてしまう自分に 気まずさを覚えつつ、瞬は何とかパンドラとの会話を続けていた。 「もちろん、自分が死ぬ決意です。それほど恋人を愛していたのなら、なぜ 自らが死んだ恋人の許に行こうとせず、恋人の蘇りを望むのか、私には解せません。自らの命を絶ち、死んだ恋人の許に向かうことが、最も容易に 手っ取り早く 恋人と再会する方法でしょう。なのに なぜ、それが当然のことのように、死んだ恋人が生き返ることを望み、二人で生きることを望むのか。なぜ そこまで生きることに執着するのか。恋人への愛と 生への欲求、そのどちらかだけで満足すればいいものを」 パンドラは、死んだ恋人に生き返ってほしいと望む人間の気持ちがわからないらしい。 実を言えば、瞬も、死んだ人に『生き返ってほしい』と望んだことは、これまで ただの一度もなかった。 『死んでほしくなかった』と思ったことは、幾度もあったが。 が、パンドラの“死んだ者に生き返ってほしいと望む人間の気持ちがわからない”は、“死んでほしくなかったと思うこと”とは、また違う気持ちのようだった。 「あなたは、死ぬべきだと考えるんですか?」 「それほど恋人と共にありたいのなら。“生き返らせたい”は、生死の法則に逆らう我儘でしょう」 「それは確かに、叶わぬ望みですが……」 それでも、“死んで一緒になる”より、“生きて幸せになりたいと望む”の方が、人間の心としては自然であるように感じる。 少なくとも、瞬はそうだった。 「死ぬことは いつでもできますが、失われた命を取り戻すことはできませんから、恋人のあとを追って 自分までが死んでしまうことを躊躇するのは 当然なのじゃないかと思います。死は永遠で、生は有限。限りある時だから、人間は精一杯 生きようとする。永遠の死の中では、人間は何事かを成し遂げようとはしないでしょう。死という永遠の中では、恋人との再会すら望まない、急がない。自分に与えられた時間が無限なら、いつかは会えるんですから」 「死も 永遠の生も、さほど変わらぬな。それとも、永遠の生は、死と同じなのか」 ふいにハーデスが会話に加わってきたのに、瞬は驚いた。 それこそ、危うく心臓が止まってしまいそうなほど。 「不死の神々に 覇気や意欲がないのは そのせいか。神々は、汚れきった この世界を粛清しようともせぬ」 「え」 『神々』――ハーデスが その言葉を口にするのを聞いて、瞬は初めて、このハーデスが普通の人間でない可能性に思い至ったのである。 ハインシュタイン家は、代々 神に仕えてきた家なのかもしれない。 小宇宙が全く感じられないので、瞬は その可能性を これまで全く考えていなかったのだ。 この漆黒の少年は、少なくとも“神々”がどんなものであるのかを知っているらしい。 そんな少年が、普通の十代の少年であるわけがない。 まさか正面から、『あなたは神ですか』と尋ねるわけにもいかない。 瞬は、軽く探りを入れてみた。 「永遠の命を持つ神は、よほど強い使命感か義務感を抱いていなければ、倦怠に支配されてしまうのかもしれませんね」 その点、アテナは生き生きしている。 それは、彼女自身は不死の神だが、彼女の愛の対象が短い命しか持たない人間たちだからなのか。 神ならぬ身の瞬には、真実は到底 わからず 察しようもなかったが、アテナが人間に関わり 人間を愛していることが、彼女を生気で輝かせているように、瞬には思われた。 「そなたの考えでは、不死の神より 短い有限の命をしか持たない人間の方が幸福であるようだ」 ハーデスが――彼は 神なのか人間なのか――瞬に問うてくる。 彼は、神寄りの位置に立っているようだった。 「そんなことを思ってはいません。不死の神々には 不死の神々にとっての幸福があるでしょう。そして、有限の命の人間には 有限の命の人間なりの幸福があるということです。朝 咲いて、夕方に散る沙羅双樹の花にも、それだからこその美しさがあり、幸福がある。ある存在が幸せだとか、幸せでないとか、違う立場の存在が決めつけるのは、違うと思うだけです」 「神が人間の幸福を定義するのも、傲慢だということか」 「人間が、あの神は幸福だとか。あの神は不幸だとか決めつけることは傲慢でしょう? 人間が、一日しか生きられないカゲロウを 不幸な存在だと決めつけることも傲慢だ」 「人間は、身の程をわきまえず 傲慢な者が多いようだ」 「それは否定できません」 この地上世界で最も傲慢な生き物は人間だと思う。 だから、自分たちが思い上がりすぎて 世界を壊してしまわないように、人間は神を作った――のかもしれない。 「でも、生きている時間が長ければ長いほど、幸福に至るのが難しそうですよね。花は半日 一生懸命咲いて、自分が不幸かもしれないなんて悩むこともなく、自分の命を終える。人間の命は、半端に長いから、悩んだり迷ったりすることが多い。不死の神となると、どうやって幸福を感じるのか、僕などには想像することすらできません」 「そのうち、わかるようになる」 「は?」 それは いったい どういう意味か。 瞬はハーデスに問おうとしたのだが、その時には既にハーデスは横を向いて、無言で質問を受け付けない旨を、瞬に知らせていた。 それきり ハーデスは何も言わず、薄闇のような沈黙の中に沈んでしまった。 彼の機嫌を損ねてしまったのかと、瞬は案じたのだが、パンドラが上機嫌で、 「ハーデス様が こんなに お喋りをしてくださるのは、久し振りです。瞬様にお会いできたことが 本当に嬉しかったんですね」 と言うところを見ると、そうでもないらしい。 そうではなかったことを 瞬が実感できたのは、翌日以降、ハーデスが ほとんど瞬と会ってくれず、会っても 全くといっていいほど、言葉を発することがなかったからだった。 ハーデスは、食事も、瞬やパンドラと共に取らなかった。 瞬のハインシュタイン城訪問初日、瞬が初めてハーデスに会った日、ハーデスは本当に機嫌がよかった(方だった)のだ。 沙織は、ハインシュタイン城にいる者たちの様子を観察し、彼等について どう感じたか、率直な意見を聞かせてほしいと言っていた。 が、彼等は――特にハーデスは――その人となりについて 率直な意見を抱けるほど知ること自体が、そもそも難しそうだった。 彼は捉えどころがない。 喜怒哀楽も明瞭ではないので、何を好み、何を愛し、何を喜ぶのかということも掴みにくい。 冷静で、少し 他者を見下し気味。 そういう態度でいられるということは、彼が他者に対して何らかの優越を感じているということだろうが、それが 地位なのか、身分なのか、権力なのか、美貌なのか、教養なのか、頭脳なのかは、瞬には判断できなかった。 一度 奇妙な夢を見た。 『あの者は、他の人間のように愚かでも高慢でもないようだな』 『ええ。その上、美しい。姿も、心も』 ハーデスの声とパンドラの声。 二人の姿は、闇の中にある。 『そうだな。あの者が 余のものになることはよいことだと思う』 『はい。その時は近いかと』 夢か。それとも、どこかで実際に交わされている会話が、瞬の中に漏れ伝わってきたのか。 いずれにしても、相手を観察し、その人となりに あれこれ評価しているのは瞬だけではないということのようだった。 |