瞬は 中立地帯で医療行為を始めた 10人目くらいの医師だった。
最初から診療所を構えて医療行為を開始した医師としては、中立地帯初の医師だったろう。
瞬がここに来て、かれこれ5年になる。
内科医ポダレイリオスと外科医マカオーン――名医として名高い二人の流れを汲む医術を学び、学んだことを 多くの虐げられた人々のために活かしたいという明確な目的を持って、瞬は この中立地帯にやってきたのだ。
生まれはエティオピア。
医師を志す者の ほとんどが 軍医になって、地位と名誉を得ることを目的としている現状を考えると、この中立地帯にやってきたという一事だけをとっても、瞬は 南北の区別なく疾病に苦しむ人を助けたいという仁愛の医師である。
この中立地帯で、瞬は皆に慕われていた。

無論、志がどれほど崇高であっても、腕の悪い医師は 人々に慕われず、求められもしない。
瞬は 医師としての腕も確かだった。
戦いで心身に傷を負った子供、女性、老人、傷兵、あらゆる人に対して公平に 優しく接し、その上 花のように美しい姿と瞳。
『瞬先生の手に触れられると、それだけで痛みが消える』
『瞬先生に励まされると、それだけで失われた力が蘇ってくる』
『瞬先生の側にいるだけで、温かく優しい力に包まれ、痛みを忘れ、幸福感に抱かれる』
瞬を知る者たちは、口を揃えて そう言う。
瞬は実は神なのではないかという噂さえ、中立地帯では まことしやかに囁かれていた。

最近 中立地帯には、戦いから逃げてきた元兵士が増えていた。
中立地帯に逃げてきた元兵士たちの半分は、身体に傷を負っている。
そして、身体に傷を負った者たちと同じくらい 心に傷を負った者がいた。
希望して軍に入った者も、働くべき田畑や山林を失って 軍隊に入るしかなかった者も、それは同じ。
人を傷付け、命さえ奪うことで、自身も傷付く。
その心の傷は 後々まで癒えないことが多い。
そういった者たちの中には、普段は大人しいのだが、突然 凶暴になり暴れ出す者も多くいた。
泣きながら、心身の痛みや苦しみを訴えていた元兵士が突然 石や棒を持って、治療に当たっていた瞬を打ち据えようとしたりするのも珍しいことではなかった。

そういう時、瞬は打ち据えられるままでいようとする。
決して 抵抗や反撃に及ぼうとはしない。
瞬は、そういった力は持たない人間なのだ。
『瞬先生は、優しさと美しさだけでできている』と、瞬を知る者たち皆が言う所以。
大抵は、瞬の側に瞬専用の護衛がいて、瞬が実際に患者に打ち据えられたりすることはなかったのだが。

「素手なら まだしも、相手は凶器を持っているんだぞ。やり返すくらいのことをしても、バチは当たらんだろう」
ちなみに、その護衛は、瞬の非暴力無抵抗主義に賛成して、瞬の身を守っているわけではなかった。
「氷河。医師が自分の患者に やり返すなんて、そんなこと できるわけないでしょう」
「せめて、逃げろ」
「医師が自分の患者から逃げるわけにはいかないよ」
「おまえの身に何かあったら、多くの人間が困るし、正気に戻った時、おまえに危害を加えようとした者が哀れだ」
「……」

そこまで言われて ついに、瞬は氷河への反論をやめた。
「うん……。それは わかってるんだけどね……」
それはわかっているのだが、瞬は どうしても、患者として自分の前にやってきた人間による暴力に反撃することができなかった。
これまでずっと、反撃せずに済んできたのだ。
氷河が瞬を守っていてくれたおかげで。
だから これからもどうにかなるだろう。氷河がいてくれれば。
――と、瞬は、考えてしまうのだ。


氷河は、以前はヒュペルボレイオスの軍にいた兵士だった。
氷河の自己申告では、
「中立地帯に素晴らしく腕の立つ医師がいるという噂を聞いたんだ。それで、俺の難病を治せるほどの腕があるのかどうかを試してみるために、軍を脱走してきた」
とのこと。
それで瞬に“難病”を治してもらい、感謝と感激のあまり、故国に帰ることをやめて中立地帯の住人になったという変わり種である。

「瞬は、俺の命の恩人で、世界一の名医だ。その恩人の名医が 自分の身を守ることに全く無頓着ときている。これは、俺が ここに残って 瞬を守ってやるしかないと思ったんだ」
ヒュペルボレイオス軍では 相当 高い階級にあったらしい氷河が、その地位を捨てて 中立地帯の住人になることを決めた理由は、それだと、氷河は言う。
そう言って、氷河は、瞬の診療所(といっても、小さな診療室と、患者を収容できる部屋が幾つかあるだけの小さな小屋のようなものなのだが)に、用心棒(=自分)のための部屋を勝手に確保し、瞬の診療所に居ついてしまったのだ。

命の恩人というからには、よほど重篤な病を抱えていたのだろうと、瞬の患者たちが“瞬先生の護衛官”に心配顔を向けると、
「氷河の言うことを真に受けないでください。氷河の怪我なんて、人差し指の先っちょの小さな擦過傷だったんですから」
と、瞬が脇から口を挟んでくるのが常だった。
そのため、氷河は、興味本位か偵察のために中立地帯にやってきたが、そこで瞬に出会い、その優しさ美しさに いかれて、ヒュペルボレイオス軍に戻れなくなってしまった 恋する男なのだ――というのが、瞬の診療所にやってくる者たちの定説になっていた。

氷河が瞬への恋情ゆえに中立地帯の住人になったのは 誰の目にも明白だったが、とはいえ、『瞬を守るために ここに残った』という彼の主張は、決して嘘ではなかっただろう。
『僕は、人を傷付けるのが嫌いです。本当に嫌い。そんなことをするくらいなら、僕自身が傷付いた方が ずっといい。僕が医師になったのは、医師になれば、人を傷付けるようなことをしなくていいからです』というのが 瞬の口癖で、ポリシーでもあったから。

実際、瞬は、花も踏めない人間だった。
薬として使える植物を集めたり、飾るために花を摘んだりすることはできるし、するのだが、踏みつけることは 命を足蹴にするようでできない――らしい。
瞬の診療室で はしゃいで 医療器具を壊してしまった子供を、母親が ぶとうとした時、ほとんど反射的に その間に割り込んで、自分が子供の代わりに 母親に叩かれてしまったこともある。
目の前で喧嘩を始める者たちがいると、『喧嘩をやめてくれ』と泣いて懇願する ありさまだった。

そこに理屈も理性もない。
瞬は とにかく、自分以外の人間(場合によっては、動物や植物も)傷付くのが怖くてならないらしい。
それが瞬自身にも治せない瞬の病気。
瞬の その病は、ヒュペルボレイオスの元軍人 氷河が 瞬への恋心に抗しきれず、瞬専用の護衛官になってしまったことと同じくらい、中立地帯では有名な事実だった。






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