ともあれ、瞬の診療所に逃げ込んでくる子供たちは全員が親の許に帰り、瞬の診療所に逃げ込んでくる大人たちの8割は(微罪か冤罪なので)氷河に追い払われ、残り2割の内の半分は 中立地帯の自警団に引き渡され、最後の1割は 南北どちらかの故国に帰っていくことで、瞬の診療所は 訳あり人間の収容所にならずに済んでいた。

中立地帯の人口は どんどん増え、今では 北と南の大国の現在の全人口を合わせた数に匹敵するほどになっている。
北の大国ヒュペルボレイオスと南の大国エティオピアの間で、200年 続いた戦争。
それが、直近の僅か5年ほどで、この地上世界における最も勢力のある国(?)は、北のヒュペルボレイオスでも南のエティオピアでもない中立地帯(国)となり、二つの大国の間に 戦意は持たないが勢力のある中立地帯があるせいで、ヒュペルボレイオスとエティオピアは戦争の継続が困難になりつつあった。

豊かな地下資源を その懐に抱えるヒュペルボレイオス。
食料の豊富なエティオピア。
それらの富や恵み、豊かさを捨てても――貧しく、飢えに苦しみ、暮らしに不便を感じることになるとわかっていても、人は中立地帯にやってくる。
人は、物理的に豊かであることよりも、平和こそを望むのだ。
その事実を、不毛の荒れ地にすぎない中立地帯の隆盛は物語っていた。

その中立地帯では、最近、瞬の診療所を もっと大きくしようという話が出ていた。
瞬自身は、自分の診療所を大きくするよりも、分院をいくつか建てて、その分院を 南北の国から中立地帯にやってきた他の医師たちに任せるようにした方がいいという考えでいたのだが、いずれにしても、瞬の診療所の建て替えはしようと――それが中立地帯の仮政府の意向だった。
そのために、このところ、大工や石工たちが 瞬の診療所を訪ねてくることが多くなっていた。
そういう状況下で、その事件は起きたのである。

とにかく手狭になった診療所を広くすることはしなければならないというので、瞬の診療所と その両隣りを2軒ずつ、計5軒の建物の取り壊しが始まった。
その間、住人たちには仮の住まいが与えられ、瞬は、その日から 仮の診療所として 通りを一つ ずれた建物での診療を始めることになっていた。
が、子供たちは その事実を知らされていなかった。

それが、事件の始まり。
診療所を壊された瞬が どこかに行ってしまうと誤解して 瞬を引き止めに来た子供たちと、瞬と、建物を壊す工人を装って瞬をさらいに来たヒュペルボレイオスの兵士たちが、壁を半ば崩された診療所の診療室で鉢合わせしてしまったのだ。


「我々はヒュペルボレイオスの王宮付き親衛隊員――その有志だ。あなたはエティオピアの王弟――エティオピアが戦で負けた時にも生き延びられるよう 中立地帯に送り込むほど、エティオピア国王に愛されている王弟だと聞いた。我々と一緒に来てもらおう」
6名から成るヒュペルボレイオスの誘拐団が、瞬を捕えようとしていたところに、
「瞬先生、どっかに行っちゃうって、ほんとーっ !? 」
と、血相を変えた子供たちが8人、飛び込んできた。

優しく綺麗で物静かな瞬先生が、眼つきの悪い男たちに囲まれているというので、子供たちは大声をあげて騒ぎ出し、結局 8人全員が屈強な兵士たちに取り押さえられてしまった。
子供の扱い方を知らない兵士たちは、言葉も所作も乱暴で、しかも 全員が抜き身の剣を携えている。
それは、瞬には、見ているだけでも 耐え難い光景だった。

「やめて! 子供たちに乱暴はしないで! あなたたちの目的は僕だけでしょう。子供たちは解放してください!」
「解放したら、大人たちを呼んでこようとするだろう。そういう訳にはいかん」
子供たちを、取り壊し予定の診療室の隅に 追い詰め、まとめ、長剣で動きを封じる北の兵士たちの様子が、瞬の頬から血の気を引かせた。

「お願いです。何でもしますから、子供たちは解放してください。僕の命が欲しいのなら、僕は抵抗しませんから、今すぐ その剣で、あなた方のしたいようにしてください。でも、子供たちは助けて!」
「命が欲しいのなら、抵抗しない……? 豪勇で名を馳せたエティオピア国王の弟が 全くの腑抜けというのは――信じられずにいたのだが、事実だったのか。では、エティオピア国王が実弟を ここに送り込んだのも、何らかの企みあってのことではなく、本当に危険から遠ざけるためか」

瞬の気弱な様子に、ヒュペルボレイオス兵は完全に気が抜けてしまったようだった。
瞬には 逃げ出す勇気も 反撃する胆力もないと踏んだのか、侮る態度を隠そうともしない。
「殺したりはしない。死体では人質として使えないからな。なに、最愛の弟の命と引き換えに、君の兄上に エティオピアの無条件降伏を要求するだけだ」
この乱暴狼藉の目的を聞いて、それでなくても青ざめていた瞬の頬は、更に血の気を失い 雪花石膏のように白くなった。
彼等の計画の無意味と無益と失敗が見えてしまったせいで。

「そんなことをしても無駄です。兄は、そんな脅しには屈しません」
「屈しないとはどういうことだ。エティオピア王は、最愛の弟が殺されても構わないと考える冷徹な男なのか」
「平等な和睦なら ともかく、無条件降伏だなんて――兄は、僕のために 国の民に犠牲を強いるようなことは、決してしません」
「それは やってみなければわからん」
「やってみなくても わかります。兄は、僕のために エティオピアの民を苦しめることはしない。それ以前に、兄は、あなた方が僕を人質に取ったと言っても、その言葉を信じないでしょう。残念ですが……僕が 一介の兵士の手に落ちるなんて、そんなことを兄は信じない。無意味です」

瞬が何を言っているのか、ヒュペルボレイオスの兵たちは理解できなかったらしい。
『僕が 一介の兵士の手に落ちるなんて、そんなことを兄は信じない』
その言葉の意味がわからず、眉をひそめたところに、
「あなた方がしようとしたことは忘れます。ですから、子供たちを解放してください。お願いですから、僕を本気で怒らせないで」
と、更に 訳のわからない発言が畳みかけられる。
わからないせいで、ヒュペルボレイオスの兵たちは苛立ちが増したようだった。
「何を言っているんだ、貴様は!」
「瞬せんせーっ!」

目の前に 長剣を突き付けられた状態で泣かずに静かにしていることが、子供たちには それ以上 できなかったのだろう。
子供たちが一斉に泣き叫び始める。
「静かにしろ、ガキ共っ!」
ヒュペルボレイオス兵が、剣の切っ先を 子供たちの目に突き刺さりそうなほど近くに移動し、恐慌状態に陥った子供の一人が その剣を素手で払いのけようとして血を流すのと、
「瞬。何かあったのか? 今日の診療は、向こうの診療所でするんだろう?」
氷河が、半ば以上 壊された診療室の中を覗き込んでくるのと、
「子供たちを傷付けるなーっ !! 」
瞬が本気で怒ってしまったのが、ほぼ同時だった。






【next】