その日。記念すべき10回目の瞬の凶事払いの儀式の日。
瞬がバビロニアの王になってから 戦がなくなってしまったので、バビロンの町の空気は 以前に比べると、かなり緩んでいた。
働き手の男たちを奪われるので 戦の嫌いな女性や子供、老人たちは、その緩やかな空気を歓迎していたし、それは大部分の男たちも同様だった。
若さゆえの血気や闘争心を発散する場を与えられず、路上や酒場で喧嘩騒ぎを起こす若者たちも いるにはいたが、それは ある意味、平和だからこそ見ることのできる光景だったろう。

それまで何十回もの凶事払いの儀式が行われ、何十人もの王が命を落としてきた競技場。
数万人の市民を収容できる競技場の観客席が満席であるにもかかわらず、大きな騒ぎになっていないのは、競技場に詰めかけた観客たちのほとんどが、王の無事(= 現在の平和の継続)を願う女性や老人たちだからだったろう。
完全に静かでないのは、戦に出て 功成り名遂げる機会を与えられない不満分子たちが、数は少なくても、声は大きいせい。

競技場の正面最前列の貴賓席には、神殿の神官たちが勢揃いしており、瞬が乗る戦車(二つの車輪がついた木製の箱にすぎない)を引く馬は、神官たちに たっぷり興奮剤を与えられたらしく、馬でありながら狂犬の様相を呈していた。
目は血走り、鼻息は荒く、歯を ガチガチ鳴らしながら、しきりに地面を蹴っている。
おそらく大きく激しい蛇行を繰り返しながら、定められたコースなど無視して 暴れまわるに違いない。
そう思われていた狂犬馬は、だが、瞬に首を撫でられると、徐々に大人しくなっていった。

「はい。じゃあ、行こうか」
瞬が手綱を引き 緩めると、狂犬のようだった馬は、むしろ躾の行き届いた忠実な番犬のように、よろめきもせずに競技場を一周し、瞬の凶事払いの儀式は、今日も 一滴の血も流さず、死者も怪我人も出さず、優雅に終わった。
10回目の凶事払いを、瞬は またしても無事に生き延びたのである。
途端に、それまで心配顔で王の操る馬と戦車の行方を見詰めていた観客たちは、競技場に歓喜の大歓声を響かせ、最前席で 儀式の進行を眺めていた神官たちは、忌々しげに顔を歪めた。
握りしめた拳を振り上げ、悔しさを隠そうとしない者もいる。

10回目の凶事払いを生き延びた瞬。
客席のバビロンの市民たちの歓声は、もはや神の存在を目の当たりにした民の熱狂を帯びていた。
その歓声が競技場を飛び越え、競技場の外、競技場の上に広がる乾いた青い空をも覆い揺るがし尽くすかのように強く大きくなった時、その大歓声に匹敵するほど大きく重い地響きが バビロンの町の地面を揺るがしたのである。
そうして、競技場の観客たちの歓声が頂点に達した時――まさに その時。
民の大歓声に呼応するかのように、バビロニア神殿の至聖所のある塔が 突如、雷鳴に打たれたような音を響かせて崩れ落ちたのだった。

種を明かせば、氷河が事前に聖域から呼びつけておいた星矢と紫龍が、いかにも神官たちの本拠地に神の怒りが落ちたようなタイミングで、バビロニア神殿の塔を打ち崩したのである。
絶妙のタイミングだった。
そんな企みがあったことは、もちろん、バビロニアの民も 神官たちも 瞬も知らない。
バビロニアの人間は、誰も知らなかった。
知っているのは聖域の人間だけ――この計画を立てた氷河と、氷河に協力者として呼ばれた星矢と紫龍、そして、呼ばれもしないのに星矢たちと共にバビロニアまで遠征してきた女神アテナ、その人だけだった。

いくら氷河が 好きでもない相手に 誠意をもって接することのできない男であるとはいえ、自分の恋の成就のために、星矢たちは ともかく、アテナにまで お出ましを願うほど、氷河は図太い男でも 厚顔な男でも 悪びれない男でもなかった。
にもかかわらず、アテナはバビロニアまでやってきて、氷河が神の使いとして ぶち上げるはずだった檄を、神からのものとして、競技場に集まったバビロンの市民や神官たちの前で ぶち上げてくれたのだ。

否やを言わせぬ、力強く 雄々しく 美しい声で、アテナは言った。
「神に仕える神官の身でありながら、神の力、王の地位を弄ぶ偽神官たちに、私は 神の一柱として、これ以上の勝手を許せません。あくまで自分は神に仕える者だというのであれば、本日以降、凶事払いの儀式には、王ではなく神官の一人が臨むように。これは神の命令です」
競技場の中心、中央、宙に浮かんだ女神アテナは、バビロニアの午後の太陽を 自身の後光にして、競技場の最上席に陣取っている神官たちに向かって、右の手を一閃した。

途端に、つむじ風のような鋭利な空気の刀が 神官たちの長衣のみならず、髪や装飾品を切り裂いて、いずこにともなく吹き飛ばす。
神官たちは顔面蒼白。
その場に跪いて、アテナに許しを乞う者まで現れた。
神官を名乗りながら、(邪神以外の)神を信じていなかった俗人たち。
アテナによって、実際に 人のものならぬ力を示された彼等は、神であるアテナを恐れることしかできなかったのだろう。

神(の怒り)を恐れて平身低頭するバビロニアの神官たちに短い一瞥(だけ)をくれ、アテナは、瞬の前に降り立った。
戦車から降りて 神殿の塔の崩壊の被害を案じている瞬に、神官たちへの声とは打って変わった優しく穏やかな声で、アテナが告げる。
「倒れたのは、人が誰もいない塔。塔が倒れた周辺にも 人はいなかったから、怪我人も出ていません。安心して。あの神殿の お偉い神官さんたちは 神殿に留守番も置かずに、全員が この競技場にイベント見物に来ていたようよ」
そう言って瞬を安心させてから、アテナは、競技場に詰めかけているバビロニアの市民たちに聞かせるために、その声を大きく響くものに変えた。

「瞬は、あなたたちの真意を確かめるために遣わした、私の聖闘士。一国だけでなく、もっと広い世界の平和と幸福のために努めてもらうべく、私が連れて行きます。瞬の次の王は――何という名だったかしら、あなたのお薦めは」
「あ……ハンムラビ、です」
「その者に」
これまで幾人もの王の執務を補助してきた驚異的なほど有能な官吏とはいえ、王宮の外部の誰も その事実を知らずにいた無名の外国人。
瞬という戦をしない理想の王がバビロニアを去ると知らされて 不安に ざわめく観衆を、アテナは、
「あなた方の王が推薦する者です」
の一言で静めてしまった。

『神の命令です』と言わないところがアテナらしいと、氷河は思ったのである。
彼女が神の名のもとに行なうことは、悪者退治だけ。
他のことは、人間の意思に任せるのだ。
人間のことは人間が決め、その責任も人間が負うべきだと、彼女は考えているから。






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