「そんなことがあるはずないでしょう!」
瞬は 抗議の声を響かせたが、それは誰に向けて発せられたものだったのか。

アテナ神殿のファサード。
そこにいるのは、瞬の仲間たちと、巨大隕石落下時に聖域や他の場所の守護についていて、命を失わずに済んだ聖闘士たちだけ。
瞬を自分のものにすれば 世界の帝王になれると 単純に信じる者は、さすがにアテナの聖闘士の中には一人もいなかったので、瞬の抗議の叫びは、この場では あまり意味のあるものではなかっただろう。
最初から『そんなことがあるはずない』と わかっている者たちしか、その場にはいなかったのだから。

「俺には理解できんな。アテナはともかく、冥府の王ハーデスは、超の字がつくほどのナルシストなんだろう? 自分の本体を傷付けたくないから 代わりに選んだ器が、こんな ひよっことは、冥府の王は いったい どういう趣味をしているんだ」
と、ほぼ本筋から外れたコメントを付してくれたのは、蟹座の黄金聖闘士デスマスクだった。
魚座の黄金聖闘士アフロディーテが、同輩の意見にすぐに賛同する。

「うむ。決して うぬぼれているわけではないが、客観的に見て、美しさでも 強さでも、アンドロメダより 私の方が はるかにレベルが上だろう。ハーデスの美意識は、人間のそれとは 相当違うようだ」
「……」
その場にいた聖闘士たちがノーコメントを貫いたのは、アフロディーテの意見に賛同しているからではなく、反対していないからでもなく――言いたいことは多々あったが、それを口にしてしまうと、無駄に面倒なことが起こるだろうことを察し、その無駄に面倒なことを回避するためだったろう。

ただ一人、黄金聖闘士を恐れず、無駄に面倒なことをも恐れない星矢が、“ほとんど反射”としか言いようのないタイミングとスピードで、自らの意見を主張し始めてしまった。
「それ、うぬぼれじゃなく、ただの誤認だろ。あんたと瞬を比べたら、瞬の方が ずっと可愛くて綺麗だ。なんたって、瞬は誰にでも優しくて、素直で親切。心の美しさとなったら、権威主義者で不平等主義者の あんたとは、それこそ桁違い。瞬は、あんたみたいに馬鹿な誤認もしなくて、頭もいい。正直、強さだってさ、瞬は 滅多に本気を出して戦わないだけで、瞬が最初から本気モードだったら、あんたなんか瞬殺だろ」
「星矢……!」

瞬が星矢の名を呼んで、その言葉を遮ったのは、星矢の発言の内容に異議があるからではなかった。
瞬は 至って謙虚な人間で、星矢のその意見に諸手を挙げて賛同できる性格ではなかったが、星矢のその意見に断固として反対というわけでもなかった。
かといって、賛同するためでもなく――瞬は ただ ひたすら、事態が無駄に紛糾することを避けたかったのである。
『美意識というものは人それぞれで、戦いの勝敗も 時と場合による』などという一般論を口にして、アフロディーテの機嫌を損ねたくもなかった。
星矢の反論だけで既に、十二分に、アフロディーテは機嫌を損ねてしまっていたが。

「ふん。青銅のガキが、アンドロメダの機嫌取りに必死だな。アンドロメダに気に入られれば、富でも戦いの勝利でも 手に入らないものはない。その上、まかり間違って アンドロメダを自分のものにできれば、世界の帝王にさえなれるというんだから、ガキ共がアンドロメダの機嫌取りに走るのも当然と言えば当然か。浅ましいこと、この上ない」
「あんた、なに言ってんだ !? 」
アフロディーテのその言葉は、瞬ではなく 星矢を、本気で怒らせてしまった。
もともと遠慮を知らない星矢が、アフロディーテの侮辱に腹を立て、意識して礼を失し、意図的に大仰に傍若無人になる。

「浅ましいのは どっちだよ! そういう さもしいことを思いつく自分の品性下劣をこそ、あんたは反省するべきだ! 俺たちと瞬は、俺たちが聖闘士になる ずーっと前から 仲良しこよしの仲間だったの! 俺たちは世界のテーオーなんて、面倒そうなものにはなりたくねーし、金は自分で稼いだ金でなきゃ 気持ちよく使えねーし、勝利は自分が強いから勝つんでなきゃ 意味ねーし。だいたい、瞬を自分のものにするなんて発想が おかしいんだよ。瞬は瞬だけのもので、他の誰かのものになんかできねーの!」

星矢以外の誰かが言ったのであれば、それは ただの綺麗事だったかもしれない。
だが、そう言ったのは、裏がなく 常に表だけ、建前がなく 常に本音だけ、そもそも嘘や綺麗事を言う能力を ほとんど持ち合わせていない星矢だったのだ。
さすがのアフロディーテも、星矢相手に、『綺麗事なら、誰にでも言える』などという皮肉を言うことはできなかった。

「ここは星矢の言う通り、星矢たちの友情を疑うのはやめることにしましょう」
アフロディーテの口撃が一瞬 止んだのを いい頃合いと判断したのだろう。牡羊座の黄金聖闘士ムウが、更なる無駄な面倒事を避けるべく、二人の間に割って入る。
『アフロディーテ VS 星矢』という珍しい対戦カードに つい見入ってしまっていた他の黄金聖闘士たちも、ムウの仕切り直しで 我にかえったようだった。
今の聖域には無駄な面倒事に時間を割いている余力はないということを、彼等は思い出したのだ。

「さもしい考えかもしれぬが、不死身になる力というのは大きいぞ。万が一にも、アテナの聖闘士全滅などという事態が起きたら、アテナと地上世界を誰が守るのか。アテナの聖闘士は 誰もが命をかけて戦っている者たちだが、全滅することだけは決して許されぬ。アテナの聖闘士の心と技を 次代の若き闘士に伝え、聖域を守り継ぐこともまた、アテナの聖闘士の務め。そのために、必ず 誰かが生き延びなければならぬのじゃ」
そう言ったのは、黄金聖闘士たちの中で最長老、天秤座ライブラの童虎だった。
彼は、伊達に長く生きているわけではない。まさに海千山千の彼は、『アテナと対立しているハーデスの力を取り除こう』などという教科書的綺麗事は、寝言にも言わない。
彼は、瞬の不死の力には利用価値があると言っていた。

「ハーデスの力を利用しようというのか? それは危険なのではないか」
「危険だが、利用できるものは、敵でも利用しようということだ。今、聖域にいる聖闘士は黄金聖闘士と星矢たち五人、そして 魔鈴。白銀聖闘士は ほぼ全滅状態で、青銅聖闘士は半減。我等は、聖域というシステムの永続を図らねばならんのだ」
「いっそ、ハーデスを、聖域とアテナの味方にするというのはどうだ? 味方は無理でも、せめて敵でなくすることができれば、聖域再建や聖闘士育成の時間稼ぎはできるかもしれん」
「アンドロメダがハーデスを手懐けることができれば、それが いちばんいいのだが……」
「ぼ……僕がハーデスを……?」

黄金聖闘士たちの視線を一身に受けて、瞬は、我知らず 身体を小さく 縮こまらせてしまったのである。
これは瞬には思ってもいない展開だった。
瞬は てっきり、ここで、ハーデスとアンドロメダ座の聖闘士の関係を絶つ方法、もしくは、『アンドロメダ座の聖闘士を手に入れれば世界の帝王になれる』と信じている者たちの誤解を解く方法が 話し合われるものと思っていたのだ。
瞬と似たり寄ったりのことを考えていた紫龍が、黄金聖闘士たちの したたかさに 呆れ感動したように溜め息をつく。

「まあ、瞬とアフロディーテの どちらが綺麗かという議題よりは有意義ですが、ハーデスの力を アテナと聖域のために利用しようというのなら、まず 瞬を余人に奪われないようにする必要があるのではありませんか?」
「余人? 余人とは誰のことだ?」
いかにも武骨な様子で、紫龍に素朴な質問を投げてきたのは、獅子座レオのアイオリアだった。
つい苦笑を漏らしそうになった自分を制して、紫龍が アイオリアに倣い、堅苦しく答える。
「余人とは――ここにいる者以外のすべての人間と考えていいでしょう」

今 聖域では、聖闘士志願の子供から、それなりの歳になっている雑兵まで、聖域の建造物の保守整備を任されている職人や工人から、下働きの女性や女官たちに至るまで――つまり、聖域にいる ほとんど すべての人間が、瞬を手に入れることは 途轍もない権力、富、戦いでの勝利、不死を手に入れることだと信じるようになっている。
ここにいる聖闘士たちの中にも、心のどこかで そうかもしれないと思っている者はいるだろう。
少なくとも、そんなことはあり得ないと断じることのできる者は 一人もいない。

「無責任な噂だ。根も葉もない妄言」
氷河が憎んでいるのは、その無責任な噂、根も葉もない妄言そのものか。
それとも、無責任な噂を広げ、根も葉もない妄言に興じる者たちなのか。
あるいは、その無責任な噂、根も葉もない妄言を生む原因となった神たちなのか。
それは定かではなかったが、ともかく、憎々しげな声と口調で、氷河は それを“無責任な噂”、“根も葉もない妄言”と断じた。
紫龍が そんな氷河に、縦にとも横にともなく首を振る。

「その根も葉もない妄言が、聖域の中に収まっているうちはいい。まさか 聖闘士である瞬を どうこうしようと考える者は、聖域にはいないだろうからな。だが、その根も葉もない妄言が、いったん聖域の外に流出してしまったら どうなるか。聖闘士の力を知らない 欲にかられた一般人だけなら まだしも、敵が――たとえば アテナとハーデス以外の神や その配下の者たちが、瞬を手に入れることを画策し始めるかもしれん。俺が案じているのは、そういうことだ」
氷河が眉を吊り上げる。
「アンドロメダを欲しがるのは、アテナとハーデスだけではない――アテナとハーデスだけではなくなるということか」
シュラが何気なく口にしたコメントが、氷河の眉を更に吊り上げた。

「アンドロメダを手に入れるために、力づくで襲い掛かってくるなら、まだましな方。誘拐しようとしたり、聖域への裏切りを誘いかけたり、恋を仕掛けてくる者が現れないとも限らない」
と、ミロ。
「最大の問題は、どういう手段を用いたにしても、アンドロメダを自分のものにした者が 本当に尋常でない権力や不死の力を手にしてしまった場合の対応だ」
と、シャカ。
「だから、そんなのは 無責任な噂で、根も葉もない妄言だろ!」

星矢の抗議は、ほぼ意味のないものだった。
それが無責任な噂であっても、根も葉もない妄言であっても、そうと信じる者たちが既に大勢 存在し、これからも増え続けるだろうことが問題なのだ。
そもそも それを、決して実現することのない根も葉もない妄言と断じることのできる者は、今のところどこにも存在しないのである。
現に、星矢たちは これまでずっと、“死なない奇跡の五人”の呼び名を ほしいままにしてきたのだ。

「根も葉もない妄言と言い切れないところもあるからな。神の偏愛は何をしでかすか、わからない。神に気に入られて 神になった人間もいるくらいだ。ヘラクレスは、人間として死んだ後、神の座に就いている」
それに比べたら、一人の人間が地上世界で不死の帝王になることなど、所詮 人間世界での出来事。
神にとっては、遊戯の範囲内のことでしかないかもしれない。

「この世界の支配者になろうとするほどの野心はなくても、女たちが瞬を放っておかないのではないか? アンドロメダは、知恵と富と勝利と不死が約束された男なわけだ。もともとアンドロメダは、優しくて親しみやすいので、女たちに 人気があった。あわよくばと考える者もいるだろう」
「放っておかないのは、むしろ 男たちの方だろうな。この顔では」
と言ったのが黄金聖闘士の誰だったのかは、彼の名誉のために明らかにしないが、自身の名誉や世間体など気にもせず、実に堂々と、
「権力や富はいらないが、死なない身体になれるのなら、俺も このガキを俺のものにしたいぞ。俺は その趣味はないが、こいつ相手なら できるだろう」
と言ってのけたのはデスマスクだった。






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