結論を言えば、瞬は氷河に襲われたわけではなかった。
瞬は、そういう状況を現出させようと考え、氷河をその気にさせるために懸命に努力したのだが、その努力は実らなかったのだ。

ちなみに、瞬が今日 氷河を沙羅双樹の園に誘ったのは、『好きな相手と親密な関係を築くには、何よりもまず、二人きりで 愛を語るにふさわしい美しい場所に 積極的に閉じこもることが寛容である』と、とある本に書いてあったからだった(らしい)。
処女宮を出てきた瞬の衣類が乱れていたのは、『好きな相手を その気にさせるには、脱ぎやすい衣服で さりげなく肌をさらし、隙を見せるのが有効である』と、とある本に記されていたからだった(らしい)。
そして、瞬が泣きながら処女宮を出てきたのは、とある本に書いてある通りの誘惑方法を、恥ずかしさを堪えて 必死に実践してみたのに、氷河は瞬の誘惑に屈するどころか、露骨に瞬との間に距離を置こうとし――要するに、瞬から逃げ回ったからだった(らしい)。

瞬が氷河の誘惑に際して参考にした“とある本”は、紀元前後に活躍した詩人 プーブリウス・オウィディウス・ナーソー著、『恋の技法 アルス・アマトリア』、『愛の治療 レメディア・アモーリス』、『愛の歌 アモーレス』の三冊。
恋の成功者になるための恋愛ハウツー本の古典である。


「アテナ神殿の図書室にこもって、おまえ、ハーデスを退散させる方法について調べてたんじゃなかったのかよ !? 」
処女宮と天秤宮を繋ぐ石段にある唯一の踊り場に、星矢が 素頓狂な大声を響かせる。
咎める口調で、星矢は瞬を問い質したのだが、瞬には 星矢に咎められる いわれはなかっただろう。
ハーデスについて調べているなどということを、 瞬は誰にも一言も言ったことはなかったのだから。
それは、星矢が勝手に そうに違いないと思い込んでいただけのことだったのだから。

「氷河は、僕たちが小さかった頃には いつも、それこそ 毎日のように僕に 大好きって言ってくれてたのに……」
顔だけでなく、声までも 俯かせて、瞬は そう言った。

『俺はおまえが好きだ。おまえと いつまでも一緒にいたい。だから、俺のために、どんなに つらい修行にも挫けずに生き延びて、必ず聖闘士になってくれ。おまえが一緒でないと、俺は自分の一生を最後まで生き抜ける自信がない。でも、おまえが一緒なら、俺は どんな苦難も乗り越えられるような気がするんだ』
「氷河が そう言ってくれたから、僕、頑張って、それで聖闘士にもなれたんだよ。なのに、なんでだか、大人になるにつれて、氷河は僕を避けるようになって――」

それは 浅ましい欲望に屈して、“地上で最も清らか”の呼び名も高い 瞬に無理を強いたくないからだと、星矢にもわかる氷河の男の事情が、稀有な清らかさで売っている瞬には わからないのだ。
否、もしかしたら、わかっていないのは 氷河の方だったのかもしれない。
現に こういうことになった今は、そう考えるしかない。
少なくとも、瞬は それを“清らかでなくなること”だとは考えていなかったのだ。
あるいは、たとえ それが“清らかでなくなること”だったとしても、それを避けたいとは思っていなかったのだ。
小さなころから、氷河を大好きだったから。

そんなふうに、それでなくても煩悶懊悩していたところに、星矢と紫龍によるフェイクニュースである。
星矢は、『さっさと誰かのものになれ』と煽る。
瞬は、『氷河でないなら、誰かのものになど絶対になりたくないが、急いで 対応しないと、世界と人類が窮地に追いやられるかもしれない』と、不安になる。

そして、氷河は、
「受け入れてもらえるにしても、拒絶されるにしても、いつかはちゃんと―― 必ず一度は、自分の気持ちを伝えるつもりだったんだ。だが、そうこうするうちに、瞬にハーデスが憑いていることがわかって――今更、瞬に好きだと告白したりなんかしたら、その告白自体が 神の恩寵目当てだと疑われることになる。俺は、瞬への俺の思いを汚さないために、瞬を避けるしかなくなってしまったんだ……!」
――だったのだ。

「あやややや……」
『実は その“瞬を自分のものにすれば、世界の帝王になれる”は、煮え切らない氷河を 煮え切らせるためのフェイクニュースでした』と、今 ここで、氷河に白状する勇気は 星矢にも紫龍にも 持ち得ないものだった。
黄金聖闘士たちには あとで きつく口止めしておこうと、脳内のスケジュール帳に赤字で書き込む。
そうしてから、星矢たちは ぎこちない笑みを顔に貼りつけ、話題の向きに微妙な変更を加えたのだった。

「そ……それで、恋の手管本で勉強して、頑張って氷河を誘惑してみたのに、氷河は 全く なびいてくれなかったのか」
「僕、一生懸命 勉強して、精一杯 頑張ったのに……」
今にして思えば、図書室での勉強開始後に 瞬が 気晴らしと称して氷河を散策に誘ったり、別資料探しに氷河の同道を頼んだりしていたのは、あれも瞬なりのアプローチ、瞬なりの氷河誘惑の試みだったのだ。
だが、瞬が 誰かを誘惑しようとすることなど あるわけがないと固く信じている氷河は、瞬の必死のアプローチに気付かない。
彼は全く気付かなかったのだ。

「気付いてやれなくて、すまなかった。まさか、そんなことだったとは……。俺は、おまえは地上の平和と安寧を守る道を懸命に模索しているのだとばかり……」
「瞬は、可愛くて綺麗で優しくて強くて、人間としても 聖闘士としても、全く非の打ちどころのない奴だけど、色気だけはないからなー……」
自分が犯した罪を忘れて、星矢が、忌憚のないコメントを付す。
いたたまれなくなった瞬は、身体を小さく縮こまらせた。
瞬の目に盛り上がってきた涙が、
「そっかー……。おまえは おまえなりに、氷河に気付いてもらおうと、必死に頑張ってたんだな……」
という、星矢らしくない しみじみした口調の言葉で、涙の粒になり、瞬の頬に零れ落ちる。

その涙の粒を見て、氷河は すぐさま、フォローに入った。
「俺は おまえが好きなんだ。おまえ自身が好きなんだ。だからこそ、不死の力目当てだの、地上支配の野心に突き動かされてのことだのと、そんな疑いを おまえに持たれたくなかった。だから、俺は おまえを避けるしかなかったんだ」
「僕、氷河と一緒がいい」
瞬のそれは、ほとんど呟きめいていて、決して力強いものではなかった。
だが、言葉というものは、大きな声で作られているものが 大きな力を持つとは限らない。
消え入るように小さく、遠慮がちでさえあった瞬の その願いは、氷河の心を強く 大きく 揺さぶり、氷河は 瞬の誘惑に屈しないでいることができなかったのである。

「瞬……」
瞬の遠慮がちな誘惑に屈した氷河は、瞬の名を呼び、瞬の肩を抱きしめた。
その瞬間、氷河は、アテナとハーデスという強力かつ有力な2柱の神に愛され守られている瞬を手に入れた人間になったのである。

アテナとハーデスに愛され守られている瞬を手に入れた人間は、人類最高の知恵、戦いにおける常勝、不死、無限の富を手に入れることになる。
そして、地上世界の永遠の帝王になるのだ――。

それは、煮え切らない男を煮え切らせるために、星矢と紫龍が捏造したフェイクニュースだった。
しかし、事実は ほぼ真逆。
冥府の王ハーデスが愛する者の心を手に入れた氷河が 受け取ることになった神の恩寵は、愛する者を横から奪い取られた神の怒り――妬みに端を発した嫌がらせ――だったのである。

圧倒的に優位に進んでいた戦いで、とどめの一撃を加えるために踏み込んだ氷河の足元に、突然バナナの皮を出現させ、戦いの形勢を逆転させてみたり、氷河が倒した邪神の手先を冥界に受け入れないことで、彼の勝利をすべて無効化してみたり、争いの女神を使った色仕掛けによって、瞬との間に亀裂を入れようとしてみたり。
ハーデスによる氷河への嫌がらせは、次元の低さはさておいて、そのダメージは大きかった。

2柱の有力な神に愛されている瞬を手に入れた人間が得る恩寵は、2柱の有力な神に愛されている瞬に愛されるという一事のみ。
愛する者を奪われたハーデスの、奪った氷河に対する嫌がらせは、極めて熾烈で壮絶だった。
つまり、瞬を手に入れたことによって 氷河が背負い込んだ苦労は、極めて熾烈で壮絶だった。
冥府の王に そこまで憎まれ嫌われて、だが 氷河は決して死なないのである。
生きている身体と心に 痛みと苦しみを味わわせ続けるために。

そんな試練の日々の中、ただ一つの救いは、瞬の愛を手に入れた喜びの大きさが、ハーデスの嫌がらせによる痛み苦しさに はるかに勝っていたことだったろう。
氷河は 地上世界の誰よりも多くの苦労を背負い込んだ男にして、地上世界の誰よりも幸福な男になったのである。






Fin.






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