「瞬? どうした」
その場に立ち止まった瞬に合わせて 足を止め、氷河が尋ねてくる。
氷河を見ず、前方の中学生グループの方に視線を投じたまま、瞬は 自分が立ち止まった訳を口にした。
「あの女の子、チョコレートを持ってるみたい」
「なに」
「バッグから赤と紺色のリボンが覗いてるでしょ。あれは、モンロワールっていうチョコレート専門店の今年のバレンタインデー限定商品のリボンだよ。ものすごくコスパがいいっていうんで、今年 うちの看護師さんたちの間で大流行りだったんだ。コスパがいいと言ったって、大人の言うことだから、中学生には 立派に本命チョコだと思う」

「バレンタインデーは昨日だぞ」
つまり彼女は、本命チョコレートを当日 渡しそびれた――もしくは渡し忘れたということなのだろうか。
そう察して眉をしかめたのだろう氷河に、瞬は溜め息の答えを返すことになった。
「氷河は 貰うばっかりで、贈る側の人間の気持ちなんて考えたことはないかもしれないけど……。彼女は多分、一日遅れで、いかにも余りものを渡す(てい)を装って、あの三人の中の誰かにチョコレートを渡そうとしてたんじゃないかな。だとしたら、この展開は かわいそう」

氷河は決して、バレンタインチョコレートを贈る側の人間の気持ちを考えたことがないわけではない。
十代の頃は、瞬から それを貰うことは諦めて、氷河の方が 瞬の好きそうなチョコレート菓子を 瞬に贈っていたのだから。
氷河はただ、バレンタインデーのプレゼントを贈るにしても 貰うにしても、ためらったり 物怖じしたりしたことがないだけだった。

「は……。恋する乙女の心は繊細で複雑にできているんだな」
「思春期は 特にね」
思春期の繊細で複雑な乙女心がわからない氷河を、だが、瞬は、無神経と評する気にはならなかった。
好きな相手に わざと嫌いな素振りを見せる。あるいは、意地悪をする。
そんなふうな、思春期や反抗期にありがちな心理状態を、アテナの聖闘士たちは 我が事として経験していないのだ。

その時期、大抵の聖闘士志願者たちは 生きるか死ぬかの修行の真っ最中。
瞬たちは 既に 命がけの死闘の中に身を置いていた。
明日 死ぬかもしれないのに、チョコレートを渡すのを ためらってなどいられない。
今日 死んで、永遠に 誤解を解く機会が与えられないかもしれないのに、好きな相手に『そんなんじゃねーよ』などという言葉を投げたりしていられるわけがないのだ。

「僕たちは、一般的な思春期や反抗期の行動を実行していたら 生きていられなかったから、そういうことをした経験はないけど……思春期って、人の思春期を見ているだけでも、ちょっと切ないね」
言葉通りに 切なげな目をして、瞬が中学生たちを見やる。
「瞬」
氷河は、そんな瞬を切ない目をして見詰めることになった。
「13、14歳といったところか。思春期ごっこなどしていられなかった俺が、好きだ好きだと おまえに迫りまくっていた歳だ。いつ死ぬか わからないんだ。優雅に意地を張ったり、嘘を弄んだりしている余裕は、俺たちにはなかった」
「うん……」

アテナの聖闘士たちは、思春期のもどかしさも、反抗期の苛立ちも、意思の力で 制御し抑制する――制御した。
それはそれで、切ない思春期と呼べるのかもしれない。
そんなことを思いながら しんみりしている大人たちの手を、
「マーマ、マーマ!」
ナターシャが引っ張り、左右に大きく振る。
それは、彼女が気付いた あることを、大人たちに早く知らせたいからだったろう。
パパとマーマの思春期どころか、一般人の思春期すら知らないナターシャには、好きな人に『好き』と言わない人の気持ちがわからない――ほぼ理解不能。
そして、彼女は今、そんなことよりも もっとずっと重要な情報を握っていたのだ。

その情報には、実は 瞬も気付いていたのである。
一生懸命 大人たちの手を引くナターシャに、瞬が頷く。
「うん。ナターシャちゃんは あのお姉ちゃんを憶えてるんでしょう? 津島さんっていうんだね。去年の秋、芝生広場で、ナターシャちゃんのリボンが解けて飛んだ時に拾ってくれたお姉ちゃんだ。髪の毛にリボンを編み込む方法を教えてくれたんだよね」
「ウン。可愛くて、解けて飛んだりしない結び方ダヨ。風の強い日は、編み込みリボンがいいヨ」

あの時、彼女は、白いブラウスと キャメルのロングスカートを着用、髪も 緩やかに流していた。
髪を黒いヘアゴムで一つにまとめ、濃紺主体の制服を着ていると、かなり印象が変わるが、間違いなく、あの時の優しくて おしゃれなお姉ちゃん。
ナターシャは、思春期男子の切なく複雑な心理は理解できないが、自分に親切にしてくれたお姉ちゃんに向かって 思春期三人組が投げつける暴言は、ナターシャには聞き捨てならないものだったらしい。
優しい人を ひどい言葉でいじめる三人組は、ナターシャにとっては、切ない思春期男子ではなく、明確に悪者だったのだ。
ナターシャの意を酌んだ氷河が、ナターシャの頭に手を置く。

「ナターシャに親切にしてくれた人を侮辱するとは、許し難い悪党共だ」
他人の思春期ストーリーなど、まさに他人事。
常識的にも 道義的にも、放っておくのが、いわゆる大人の対応なのだろうが、ナターシャに親切にしてくれた人が悲しい思いをしているとなると、放ってはおけない。
ナターシャのために放っておけない。
放っておかないことにしたらしい氷河に、瞬は、
「あまり無茶なことはしないで」
と釘を刺した。
瞬の警告に従う気があるのかどうか、その点は非常に疑わしいところだったが、それでも一応、氷河は浅く頷いてみせた。






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