忘れじの






大学で 6年間の医学教育を受け、国家試験に合格して、医師免許を取得。
その後、医学部に附属する大学病院 または厚生労働大臣指定の臨床研修施設で、2年以上の臨床研修。
それらのことが、日本国で臨床に携わる医師には義務付けられている。

光が丘病院は、病床数400以上の地域医療支援病院ではあるが臨床研修施設ではないので、そこに勤務する医師の年齢は 基本的に26歳以上ということになる。
瞬は、同僚医師や看護師、時には患者にまで 年齢不詳医師と言われる医師だったが、つい半年ほど前、光が丘病院に年齢不詳医師が もう一人 増えた。
名前は 伏野仁志(ふしの ひとし)。
医師の名前が、『不死の人――ふしのひと――』というのは縁起がいいと、着任時には 看護師たちの間で話題になっていたらしい。

瞬は美少女にしか見えないというので年齢不詳なのだが、伏野医師は、若いのか年配なのか わからないという意味での年齢不詳。
リハビリテーション科の医師なのだが、18、9歳の学生に見える時があったかと思うと、40過ぎの、まさに不惑の落ち着きを感じさせることもある。
『年齢不詳にも色々なタイプがあるものだ』という彼(と自分)の噂は、彼と直接 知り合う前から、瞬も聞いて(聞かされて)いた。
実際には、臨床研修を終えたばかりの27歳。
当人は自分の年齢不詳の訳を、『苦労しているようで、苦労知らずだからです』と説明しているそうだった。

瞬は総合診療科の医師である。
そこから患者を直接リハビリテーション科に送ることは 滅多にないのだが、ケアカンファレンスで同席した際に 年齢不詳医師同士ということで 他の医師に紹介され、瞬は彼と知り合った。
年齢不詳医師同士だから――というより、他の大抵の人間が そうであるように、瞬に親しみやすさを感じてのことなのだろうが、伏野医師は、それ以降 しばしば、ちょっとした助言を瞬に求めてくるようになったのである。
総合診療科とリハビリテーション科は棟が違うのだが、瞬と伏野医師が並んでいると、兄妹にも 姉弟にも 父娘にも見えて面白いというので、何かと瞬の許を尋ねてくる伏野医師を、総合の看護師たちは歓迎しているようだった。

そんな伏野医師が、
「瞬先生、今日、これから お時間 ありますか。ご助言を――いえ、相談したいことがあるんです。よろしければ、今夜 一緒にお食事でも」
と言って、総合診療科と内科の医局にやってきたのは、冬も終わりに近付いた ある日。平日日勤の終了時刻の5分後――17時5分のことだった。
おそらく 瞬を誘うために リハビリテーション科の医局のある棟から急いで駆けてきたのだろう。
だが、その日、瞬には どうしても 外せない用があったのだ。
「すみません。伏野先生。僕、小さな娘を育てていまして、今日は すぐに帰らなきゃならない日なんです」
という大事な用事が。

「は……?」
業務上のことは頻繁に相談を受け、助言を求められ、助言を与え、励まし、話し合ったりもしてきたが、プライベートなことには互いに全く触れたことがなかった。
瞬の定時帰宅の理由を聞いた伏野医師が、今日は18歳に見える顔で 目を丸くする。
「娘……って、瞬先生、ご結婚されていたんですか?」
「あ、いえ。そうではないんですが……」
説明すると長くなり、嘘もつきたくないので、熱心に尋ねられない限り、言わずにいるだけ。隠すつもりはない。
そもそも職場に隠していては、子育てはできない。
瞬は、手短に 自分の家庭の事情を伏野医師に説明した。

「友人の娘なんです。父子家庭で、友人は夜の仕事をしているので、夜勤の時以外は、僕が預かっています。毎日 一緒なので、実の娘のようなものですよ」
瞬の説明では手短すぎると思ったのか、瞬の隣りの席のベテラン女医が、瞬の説明に補足説明を付してくれた。
「3歳……4歳になったんでしたっけ? ナターシャちゃんっていう、すごく可愛い子ですよ。はきはきしてて、明るくて。お休みの日に、瞬先生と遊んでいるのを 時々 公園で見掛けるんですけどね。特に何をしてるってわけでもないのに、美少女二人で 目立つ目立つ」
「へ……え。会ってみたいな」
「あれは一見の価値ありですよ。ナターシャちゃんのパパさんが、これまた超イケメンで、三人揃うと壮観。松島、天橋立、宮島に、光が丘公園ちびっこ広場を加えて 日本四景。世界文化遺産への登録を申請すべきだと思いますね、私は」

ベテラン女史には“女の子の育児”について、幾度もアドバイスをもらっている。
仕事の要領も頭の回転も速い女史の早口を、瞬は黙って傾聴するしかなかった。
事情を心得ている女史は、話をすぐに切り上げてくれたが。
ともかく、今日のみならず 日勤の日は ほぼすべて、瞬は食事の誘いには乗ることはない。
――ということを、伏野医師は理解してくれたようだった。

そして どうやら、彼の相談事は、勤務の合間に病院内でできるようなものではないらしい。
瞬のために微笑を浮かべることはしていたが、伏野医師は、はっきりと両の肩を落としていた。
彼が瞬に相談したいことは、他の医師では相談に乗れないことなのか。
だとしたら、それは どんな分野のことだろう――と、訝りつつ、瞬は彼に提案してみたのである。

「あ、よろしければ、僕の自宅に招待しますよ。僕と友人は、同じマンションの別の階に住んでいて、互いの部屋を行き来しながら、育児をしているんです。今日は 友人の許可を得ていないので無理ですが、次に、伏野先生と僕が夜勤でない日に」
「いいんですか」
「外出して 帰宅が遅くなるよりは、その方が――」
その方が、氷河も、変に勘繰ったり、無意味な焼きもちを焼いたりしないから――とは言えない。
『とにかく、小さな女の子を一人にしておくわけにはいかないので』という、嘘ではないごまかしで、瞬は その場を ごまかした。

「友人は 超の字がつくほどの親馬鹿で、自分の娘に近付く人には厳しい資格検査を課すんです。品性下劣な人は駄目。言葉遣いが荒んでいる人や 捨て鉢な生き方をしている人は駄目――といった調子で。僕の同僚と言えば 駄目とは言わないでしょうが、事前に許可を取っておかないと機嫌を悪くすると思うので、事前に話を通しておきます。ナターシャちゃんは お利口だから、大人の話の邪魔はしませんよ。命の大切さを理解してもらうために、僕たちは ナターシャちゃんに 人の生死に関わる話もしますし――伏野先生が 子供の同席は困るというのでなければ……」
『ナターシャちゃんの監視付きなら、氷河も 自分の不在時の来客を許すだろうから』とは言えない。
伏野医師も、ナターシャの同席は、むしろ望むところのようだった。

「しっかりした教育方針に従って 育てていらっしゃるんですね。ますます会ってみたくなりました。ナターシャちゃんは何が好きでしょう。ケーキ、果物、季節の和菓子……」
「お客様が大好きですよ」
瞬が答えると、伏野医師は、
「それは忘れないようにしなければ」
と、笑顔で応じてきた。






【next】