アフロディーテは、その事実を知っても、特に動じた様子は見せなかった。 掴みどころのない表情で、彼の用件を瞬に知らせてくる。 その用件というのが、これまた瞬には理解不能なものだったが。 アフロディーテは、 「君が医師だというので、職場訪問でもしてやろうかと思ってやってきたのだ」 と言ったのだ。 今日が日曜だということを度外視しても、色々なことの感性が違いすぎて、もはや溜め息も出ない。 「聖闘士ではなく医師として働いている僕を見ても、あなたには 何も楽しいことはないでしょう。そんなことをしても、あなたの益になるとも思えませんし」 「益にはならぬだろうが、興味深いことではある。地上の平和を守るため、正義のため、愛のため――その名目はどうであれ、多くの人間の命を屠ってきたアテナの聖闘士が、人の命を救う医師を兼業しているんだ。それは皮肉なことであり、滑稽なことでもあり――。君が医師になった目的が、もし 人の命を救うことなのであれば、君は その目的を実現するために、医師として勤めるより、アテナの聖闘士として戦うのをやめるべきだ。その方が、はるかに効率的だ。数の大小の比較くらい、君にも できるだろう」 季節は浅い春だというのに――。 真夏の真昼間の太陽のように、逆らうことも許されないような真っ当なアフロディーテの主張に、瞬は笑うしかなかった。 アフロディーテは、『一人の怪我人に止血処理をしてやるより、大量破壊兵器の使用をやめろ』と言っている。 あまりに正論すぎて、顔を伏せることすらできない。 「……そうですね。アテナの聖闘士である僕は、一瞬で 千人の命を奪うこともできる。なのに、医師である僕には、死にかけている一人の人を救うために、場合によっては何日も何ヶ月もの時間が必要だ。それだけの時間と労力を費やしても、目的を果たせないこともある。僕のしていることは、本当に非効率だ。あなたの言う通り、戦わなければいいんだ、僕は。そういう世界を実現できたら、どんなにか――」 それでも――瞬が戦わなければ 万の人が死に、アテナの聖闘士が戦わなければ、死者の数は億にのぼる。 戦わなければならないのだ、瞬は。アテナの聖闘士は。 アフロディーテも、それは わかっている。 彼は ただ、瞬が選んだ職業が医師であることを訝っているようだった。 バルゴの黄金聖闘士は、なぜ よりにもよって、そんな空しい――悲しい――職業を選んだのか、と。 「君はなぜ医師になったのだ?」 「え……?」 「君が その非効率なことをしているのは、なぜだ」 「……」 質問者の意図が わからない。 アフロディーテの声には、少し 苛立ちの響きが混じっているように感じられる。 彼は、乙女座の黄金聖闘士に、もっと生産的な農業や製造業に職替えしろとでも言いたいのだろうか。 それは忠告か。 まさか このアフロディーテが。 瞬は、自分の推察を 自分で切り捨てた。 「仲間たちの命を救うために医師になったのかと考えていたのに、交通事故に巻き込まれて 泣きわめいている幼児の子守りとは……君は君の才能と力と時間を無駄使いしている」 職場訪問を、アフロディーテは既に済ませたあとだったらしい。 あるいは、瞬の仕事振りに呆れ、瞥見したたけで退散したのか。 「僕は、そうは思いません」 瞬は、アフロディーテのその見解だけは、すぐに否定した。 どれほど非効率であっても、それは必要な仕事なのだ。 瞬の言葉を、しかし、アフロディーテは聞いてもいないようだった――聞く必要もないと言わんばかりに、彼は瞬の言を無視した。 そして、問うてくる。 「君が医師になったのは、アテナの聖闘士として為してきた戦いの罪滅ぼし、多くの命を奪ったことへの代償行為なのか」 アフロディーテは、それを確かめたかったのだろうか。 だが、それを確かめて何になるだろう。 少なくとも、彼に何らかの益が もたらされることはない。 そう思いながら、瞬は、彼に問われたことへの答えを口にしたのである。 「僕が医師として勤めていることが、代償行為になるとは思っていません。僕がしたことは 許されないこと。取り返しのつかないことですから」 「許されないこと……」 瞬の言葉を、アフロディーテが繰り返す。 繰り返して、彼は再び 瞬に問うてきた。 「君は後悔しているわけではないのだろう? これまでの戦い、地上の平和を乱す多くの敵を倒してきたこと。私を倒したことも」 『後悔している』と答えたら叱りつけられそうだ。と、瞬は思った。 『後悔などしていません。僕は地上の平和を守るアテナの聖闘士として為すべきことをした』と答えなければならないこともわかっている。 『あなたを倒したことも、もちろん後悔していない。それは必要なことだったのだ』 アフロディーテが期待している答えは それである。 それはわかっているのに――瞬は嘘がつけなかった。 「後悔しています。僕がもっと強かったら、僕がもっと……目に見えて、桁違いに あなたより強かったら、あなたは 僕と戦おうと思わずにいてくれたかもしれない」 「……」 嘘はつけない。 瞬の正直な答えに、アフロディーテは ぴくりと こめかみを引きつらせた。 「相変わらず、癇に障る子だな、君は。つまり、君は、自分が私より少ししか強くなかったことを後悔しているというわけか」 嘘をつけないので、瞬は頷く。 「そうです。最初から、圧倒的な力の差をあなたに感じさせ、僕と戦っても、万に一つの勝ち目もないと、あなたに思わせることができていたら、僕は あなたの命を奪わずに済んだ」 後悔するのは、いつも、自分の弱さ。 自分の弱さが 人を傷付けてしまったことだった。 不快の気持ちを通り過ぎたらしいアフロディーテの目が据わってくる。 「たとえ君が私より桁違いに強かったとしても、私より年下で 格下の青銅聖闘士である君が 私より強いことを、あの頃の私が素直に認めたかどうか」 「認めたでしょう。僕が本当に あなたより桁違いに強かったら。アテナの真の力を知らなかったとはいえ、女神であるアテナより、人間であるサガの方を、『強い』という理由で選んだあなたなら。強ければ、あなたは、相手の立場や名前には こだわらない」 きっと そうだったと、瞬は信じていた。 だからこそ、自分の力不足、自分の弱さを悔やまずにいられないのだ。 「強さに価値をおく あなたは、アテナではなくサガこそが、聖域と世界を統べる力を有する者と考えて、サガに従ったんでしょう? 僕が強かったなら、僕がサガ以上の力を あなたに感じさせることができていたなら、あなたは 僕が奉じているアテナに従ったはず」 そこまで言われてやっと、初めて、アフロディーテは 瞬の言に頷いた。 「そう。君の言う通りだ。正当、正義より、強さ、力。サガがアテナを信じる者たちを偽っていることを承知の上で、私は彼に従った。彼の力に従った私は、間違いなくアテナと聖域への逆賊。私を倒したところで、君が後悔する必要はないのだ」 後悔を『するな』と言われ、『しなくていい』と言われて、後悔せずに済むようになるのなら、人は生きることが どんなに楽なことか。 だが、後悔の気持ちは 意思や理屈では消し去れない。 「あなたと戦わずに、もちろん 命も奪うことなく、平和裏に、アテナに従うよう 僕はあなたを説得したかったんです。戦わずに済むのが最善。僕が今でも戦い続けているのは、僕が未熟だからです。いつまで経っても、僕は弱い」 「……君は、君と戦って敗北を喫した すべての人間の神経を逆撫でしている。戦う者は、自分を倒した者を強いと思っていたいものだ。自分も強かったのだと思うために。過ぎる謙遜や自己卑下は、自分より他者を貶める」 それは、よく言われる。 『それで敵を作らないのが不思議だ』と。 しかし、瞬は、謙遜をしているつもりも、自身を卑下しているつもりもない。 「ですが、それが事実です」 「――」 アフロディーテは、既に 憤りも不快の気持ちも通り過ぎ、“どうしようもなくなって笑う”をも飛び越えて、無表情、無感動の域に至りつつあるようだった。 声から抑揚が消えている。 |