Boys Be






「あなたに、英国のジェントルメンズ・クラブに入会してもらいたいの」
「僕はジェントルマンではありませんよ」
「オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブのメンバーになってもらうわ」
「僕がオックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブのメンバーになれるわけがないでしょう。僕はオックスブリッジの卒業生ではないんですから」
「ほら、ジェントルメンズ・クラブって、未だに女人禁制のクラブが多いでしょう? 私が直接 乗り込むわけにはいかなくて」
「沙織さん、僕の話、聞いてます?」

沙織は もちろん、瞬の話を聞いていない。
聞こえてはいるだろうが、聞いてはいなかった。
たまたま非番だったとはいえ、自由業従事者ではない勤労者を、平日の日中(幸いにも、氷河が在宅していたので、ナターシャを一人にすることはせずに済んだ)に、突然 城戸邸に呼びつけて、地上の平和を乱す敵が現われるたびに世界各地を転戦してきたとはいえ、なぜか英国にだけは行ったことのない瞬に、英国のジェントルメンズ・クラブに入会しろとは、いったい何事か。
沙織の突拍子のない言動には慣れているが、今回ばかりは無茶だと、瞬は思ったのである。
そもそも 瞬は、ジェントルメンズ・クラブに入会する資格を針の先ほどにも有していなかった。

ジェントルメンズ・クラブは、英国発祥の会員制社交クラブである。
もともとは、上流階級の紳士たちが、家の外で集まり、会話を楽しんだり食事をしたりする くつろぎの場として始まった。
そのクラブハウスには 宿泊施設があり、酒や食事を楽しみ、翌朝まで過ごすことのできる快適な空間が提供されている。
この場合の“ジェントルマン”は、“高い人徳とマナーを心得た男性”ではなく(それだけではなく)、貴族とジェントリー階級に属する男性――つまり、一定以上の高い身分を有する男性を指す。
最近では、女性のみのクラブも結成されているが、伝統あるジェントルメンズクラブの多くは 今でも女人禁制だった。

日本人で、爵位を持たず(つまり、貴族ではなく)、ジェントリー(地主階級)でもなく、オックスフォード大学の卒業生でもケンブリッジ大学の卒業生でもない瞬は、オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブに入会する資格を、全く備えていないのだ。
それを、沙織は、男子だから入会できると思い込んでいる(ように振舞っている)。

「オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブは、女性の入会を認めていないの。もちろん 女性でも、会員と一緒ならクラブハウス内のカフェやレストランを利用することくらいはできるのよ。でも、会員でないと足を踏み入れることのできないフロアや利用できない施設も多い。だから、あなたに入会してもらって、ある会員と接触し、その人を口説いてほしいの。英国のEU離脱で ややこしいことになる前に、片付けたい懸案事項があるのよ」
「オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブの会員と接触することは、クラブに入会しなくても可能でしょう」
「ターゲットは、シドニー子爵。詩人のフィリップ・シドニーやシェイクスピアのパトロネスだったメアリー・シドニーを輩出している名門シドニー家の現当主よ。御年72。10年前に 奥様を亡くしてから、社交界に顔を出さなくなって、ほとんど人付き合いを絶ってしまったそうなの。滅多に自宅を出ず、来客も受け付けない。唯一の例外は、ジェントルメンズ・クラブで古くからの友人たちと学術的な情報交換をすることくらい。子爵は、歴史民俗学者なのよ。著作も何冊かあるわ。専門は、中世から近代の地中海世界」

沙織はまた、瞬の話を聞いていない。
というより、自分が語りたいことだけを語り続けている。
瞬は自分の意見を沙織に主張することを諦めた。

「オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブは、他のジェントルメンズ・クラブ同様、カフェやレストランまでなら 女性の利用を許しているのだけれど、バーや談話室には入れないの。そうやって、男だけの聖域を守りたがっているわけね。くだらない意地だと思うけれど、クラブのルールを変えることが私の目的ではないから、そこは規則に従うことにしたの。子爵は、カフェやレストランは利用せず、宿泊施設を使うこともない。クラブでは お酒を飲みながら、会員だけが入ることを許された談話室で 友人たちと歓談して過ごすことが多いらしいわ。つまり、旧知でない人間が子爵に接触し、込み入った話をするには、クラブの談話室で彼を掴まえるしかない――というわけ」

『なるほど』と、いったん沙織の発言を受け入れる。
そうしてから 瞬は、極めて婉曲的に、『自分は そんなクラブに入会したくはないし、入会するつもりもない』という意思を彼女に伝えてみたのである。
「そのシドニー子爵という紳士は、沙織さんの地位と権力と財力と政治力をもってしても、容易に近付けない人物というわけですか。ですが、それなら、僕より氷河の方が――英国のアッパークラスの人間が皆 レイシストだとは言いませんが、彼等は建前はどうあれ、人種や見た目を重視する人たちですし、コーカソイドの姿を持った氷河の方が 受け入れてもらいやすいのではありませんか」

クラブのルールや会員の価値観を変えることが目的でないのなら、効率を重視すべきである。
――という瞬の主張は、極めて現実的な理由で退けられた。
「日本と英国との時差はマイナス9時間。シドニー子爵がクラブに顔を出すのは、午後1時から6時くらいまで。日本では、午後10時から午前3時の間ね。その時間、氷河は仕事中でしょう。それに、氷河とシドニー子爵が、紳士同士として話が合うとも思えない。氷河と子爵にできるのは、お酒の話くらいでしょうね」 
「では、紫龍はどうです」

氷河の就労の都合を考慮しての人選と言われると、氷河と一緒に育児をしている瞬は その立場上、強硬に氷河を推薦し続けることはできなかった。
そこで、氷河の次の候補を提示する。
個人商店規模の輸入商を営んでいる紫龍には決まった勤務時間というものがないので、氷河や瞬より 時間の融通がきく。
だが、沙織は、紫龍も不適格者として却下した。

「紫龍は、生活の拠点は 日本に置いているけど、仕事は 中国の物産メインの輸入商でしょう。生粋の日本人なのに、どういうわけか中国人と誤解されることも多い。この件に、中国人はまずいのよ。今、シドニー子爵は中国と中国人に好意を抱いていない。むしろ、敵視していると言っていいくらい。あ、それから、こういう交渉事に 星矢と一輝は問題外。あなたが最適――あなただけが適任なのよ」
「……」
瞬とて、ここに 星矢と兄の名を持ち出すつもりはなかったが、沙織は 瞬の前で、その二人を選択肢から外してみせた。
そんな沙織の前で、瞬が一度、大きく深呼吸する。
沙織の無茶な計画を思いとどまらせるために、瞬は、別の角度からのアプローチを始めた。

「オックスブリッジの卒業生を装うことくらいなら、僕にもできるかもしれませんが、僕はジェントルメンズ・クラブへの入会は許されないでしょう。僕はモンゴロイドで――貴族じゃない。日本に特別な身分の人間は 皇族くらいしかいないということを、英国の貴族なら知っているはずです」
「あなたは、性別不詳、年齢不詳だけど、人種も民族も不詳。世界中、どの地域の美意識でも、素晴らしく美しいと認めてもらえる稀有な容姿を持っている人間よ。あなたなら、どんなクラブでも 特別待遇で受け入れてくれるでしょう。オックスフォードの卒業生で、マートンカレッジに籍を置いていた――という設定を用意してあるわ」

立派なアリバイを用意すると、そのアリバイが崩れただけで 犯人扱いされるミステリーの常道を、沙織は知らないらしい。
そんな設定を用意して、つい うっかり矛盾や無知をさらけ出す言葉を口にしてしまったら、かえってメッキが剥がれることになるだけなのに。
――と、瞬は胸中で呻き嘆いた。
もちろん、沙織は、瞬の胸中の嘆きなど聞きもしない。

「入会は許可させます。オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブの会長、副会長は、お祖父様の友人で、私の友人でもあるわ。祖国のEU離脱を控えて、私に恩を売っておいた方がいいことを知っている賢明な人たちよ」
オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブの会長、副会長ともなると、身分と格式とプライドだけが高い無能没落貴族とは違うらしい。
瞬は、二度目の溜め息をついたのである。
自分がオックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブに入会することは、もはや変えることのできない既定路線らしいことを悟って。

「そのシドニー子爵ですが……中国を敵視しているというのはどういう事情なんですか」
その質問が、瞬の『ご命令に従います』だった。
瞬が観念したことを察して、沙織が微かに頷く。
それから彼女は、彼女にしては珍しく、どこか へりくだった、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「シドニー子爵は歴史民俗学の学者だと言ったでしょう? 彼は、その繋がりで、ナショナル・トラストの活動をしているの」
「ナショナル・トラストというのは――景勝地や歴史的建造物保護のために、私財を投じて土地を買う、あれですか」
「ええ、そう。子爵としては、歴史的 民俗学的に重要な地域にビルなんか建てられては たまらないというわけね。ギリシャの財政危機のピーク時、中国企業がギリシャ最大の港ピレウス港を買収したでしょう。他にも、多くの中国企業が地中海のあちこちの島を購入している。シドニー子爵は、欧州人としても、地中海世界の歴史民俗学を専攻する学者としても、ギリシャの中国支配に危機感を抱き、買える土地を片端から買収してまわったの」
「それで中国とは良好な関係ではないというわけですか。ですが、それと、僕がジェントルメンズ・クラブに入会することに どういう関係があるんです」

瞬はまだ、自分がオックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブに入会して、シドニー子爵に接触し、片付けなければならない懸案事項の内容を知らされていなかった。
それは、瞬としては、極めて順当で、必要な質問でもあったのだが。
今度 大きく深い溜め息をついたのは、瞬ではなく沙織の方だった。
沙織の溜め息が大きく深くなるのも ごく自然なことだと、続く 沙織の説明を聞いて、瞬は得心することになったのである。

「迂闊にも程があると思うでしょうけど……聖域の一部が、手違いで彼の所有地になっていることがわかったの」
「は?」
「買い戻さなければならないわ。何としても」
「……」
溜め息どころか。
瞬は一瞬、息をするのも忘れたのである。
咄嗟に、言葉も出てこなかった。
それまで瞬は 考えたこともなかったのである。
聖域の存在する土地が、誰かの所有地だということを。
その地が何者かの―― 一般人の所有に帰しているというのなら、確かに それは何としても取り戻さなければならない。
まさか聖域が一般人に土地の借地代を払うなどという事態が生じてはならない。

「わかりました」
瞬の声に、もはや ためらいはなかった。
瞬のきっぱりした返答に、沙織が すまなそうに頷く。
「子爵は、ギリシャ国内で購入できる土地を片端から買いあさって、その詳細は把握していないようなの。ナショナル・トラストは、本来、中国支配を避けるためのものではなく、文化遺産自然遺産保護のための運動だから、彼は 聖域にビルを建てようなんてことは考えないと思うのだけれど――」

ナショナル・トラスト運動で土地を購入した人間から、その土地を買い取ることは至難のわざだろう。
自然保護文化保護のために土地を買った人間は、購入金額の倍の額を提示されても、その土地を手放したりはすまい。
『二流神を1柱 倒してこい』と言われる方が、任務としては よほど容易かもしれない。
この任務が、自分の仲間たち――星矢、紫龍、氷河、一輝に任せられる種類のものでないことも理解した。
瞬は、沙織の命令に従うしかなかったのである。
地上の平和の砦であるところの聖域を守るために。






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