「私は、10歳の頃、ノーフォークにある古い別荘に行ったんです。300年以上前に建てられた 古い館で、取り壊しが決まったので、最後の検分をするという両親についていった。館内にある物で 取っておきたいものがあったら何でも自分のものにしていいと言われた10歳の私は、『宝島』のジム・ホーキンスになった気分で 宝探しを始めた。

「そして、当主の居間だった部屋のティーテーブルのひきだしで、一冊の古い日記を見付けたのです。私の8代前、250数年前――ギリシャがまだオスマントルコ領だった頃の先祖の日記でした。彼は、文人家系のシドニー家の一員にしては珍しく、思考より行動の人間だったらしく、日記の内容は なかなか はらはらする愉快なものでしたよ。

「27歳の時、彼は、ギリシャの島にバカンスに行き、行動派の彼らしい無茶をして船から落ちた。トルコの船に助けられたはいいが、スパイと疑われ、トルコ軍に捕らわれてしまったのだそうです。ギリシャ独立の機運が高まっていた頃でしたからね。先祖はギリシャ独立を目論む反逆者、あるいは その協力者である外国人としてトルコ軍に処刑されそうになった。

「本気で人生の継続を諦めた時、私の先祖は 超人的な力を持つ闘士に救われたのだそうです。乙女座の闘士と名乗る人に。先祖の日記を読んだ私は、何ともロマンチックな命名をしたものだと、子供心に うっとりしたものですが……」

「え……」
乙女座の闘士。
それは自分のことではないか。
瞬の心臓は 跳ね上がったのである。
ギリシャがまだオスマントルコ領だった頃の冒険活劇の登場人物。それが自分のことであるはずがないのに。
「先祖の日記には、『もし、我が子孫が、手で触れることなく宝石を砕ける人に出会ったなら、我が一族は その人の仲間に返しきれないほどの恩を受けた者たちであるから、その方の望みは どんなことでも叶えるように』と記されていました」
「……」
「日記には、『それが、我が祖国、愛する我が家族、友人、我が子孫、そして、この地上世界を守ることだと信じて、ここに記す』と書かれていた。あなたは私の先祖の日記の意味がわかるのでしょう?」

『わかるのか』と問われれば、『わかる』と答えるしかない。
まさか、こんなところで、先達の存在と活動の一端を知ることになろうとは思わなかったが、もちろん日記の意味は しっかりとわかった。
わかりはしたが――瞬は、すぐには返事ができなかったのである。
何とか声を発した時、瞬の声は子爵同様 上擦り かすれていた。
「乙女座の闘士……もしかして、彼の名はシジマだったのでは?」
「その名を知っているということは、では、あなたは やはりアテナの聖闘士なのですね」

シドニー子爵は、アテナの聖闘士の存在を知っていた。
そして、彼は アテナの聖闘士の敵ではないようだった。
瞬を見詰める子爵の目は、今では完全に、夢と希望の輝きだけを たたえた少年のそれだった。
「何代も前の先祖が会った不思議な闘士に 私も会いたくて、ホメロスのイーリアスを事実と信じるシュリーマンのような気持ちで、私は 何度もギリシャを旅しました。そして、中国資本の支配から 恩人の国を守りたいの一心で、購入できる土地は片端から購入していたんです。……が、それにしても、まさか こんな華奢な方が 最強の聖闘士として 私の前に登場するとは思ってもいなかった」

楽しそうに笑うと、鉄血宰相の印象は 優しいテディベアのそれに変わった。
半世紀以上の長きに渡って信じていた夢物語が真実のものだったとわかった時、人は こんな笑顔を浮かべるものなのか。
そんな人に、
「我々のことは 内密にお願いしたいのです」
と頼まなければならないことが、瞬は少なからず心苦しかったのである。
しかし、子爵は快諾してくれた。

「もちろん、あなたの望みは すべて叶えます」
「ありがとうございます。もし 子爵に何かお望みや お困りのことがありましたら、グラード財団の城戸に連絡をください。必ず 我々が報います」
子爵は、だが、瞬のその提案には首を左右に振った。

「報いなど いりません。いえ、報いは既に受け取った。――幼い頃から 憧れ夢見ていた世界が 幻でなかったことを、この人生の黄昏の時期になって知ることができたのです。生涯をかけて憧れ、夢見、探し求めていた世界平和と人類存続の砦が、本当に存在することを知った。そして、あなたが来てくれた。それこそが何よりの報いです」
夢見る少年は 長じて生真面目な歴史民俗学者になり、今また 夢見る少年に戻った。
否、彼は いつの時も変わることなく、希望を信じ、夢を夢見る 純粋な少年だったのだ。

アテナの聖闘士は、希望の聖闘士。
自分自身が 希望を失わないことで、すべての人々に希望を与え続ける。
それがアテナの聖闘士である。
とはいえ、まさか、こんな希望の与え方があったとは。
シドニー子爵の存在と 彼の夢は、瞬に希望を与えてくれるものだった。
世界の平和を守るための戦いの意義を教えてくれるものだった。
彼の夢を守るために、アテナの聖闘士は戦い続けるのだ。
子爵のように、生きることに 夢と希望を抱いている多くの人々を守るために。

無事に任務を果たした安堵感と、子爵にもらった弾む思いを胸に、その夜、瞬は 氷河と共に帰宅したのである。



勝手に店の営業時間を短縮した氷河は、だが 例によって、いい男好きの蘭子にペナルティなしで許された。
シドニー子爵は、約束通り、土地の登記書類を沙織に譲る旨、申し出てくれたらしい。
沙織は、その返礼にふさわしいエーゲ海の島を物色中。中国企業から買い取るつもりでいる。
彼女の話では、頑固さと堅苦しい生真面目さで名を馳せていた ご老体が、謎の美少女の心を一瞬で射止めてみせたというので、そちら方面で若手メンバーの尊敬を集めることになってしまったシドニー子爵は、最近 戸惑いの日々を過ごしているらしい。






Fin.






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