ところで、実は、氷河と瞬とナターシャの家に集まった大人たちは、蘭子の会合の目的を聞いた時、何事にも積極的で 人助けが大好きなナターシャが 自分も神輿を担ぎたいと言い出すのではないかと、それを案じていた。 幸い、それは杞憂に終わったが。 去年の神輿担ぎの写真を蘭子に見せられて、自分の身長では 神輿に手が届かないことを察し、自粛してくれたのかもしれない。 だが、ナターシャは、神社には行きたがった。 神輿が見たいのか、はたまた、屋台の綿菓子や飴細工がお目当てなのかと尋ねると、ナターシャの目当ては そのどちらでもないと言う。 『パパに 綿菓子は買ってもらうけど』と前置きをしてから、ナターシャは彼女のお目当てを 大人たちに教えてくれた。 「ナターシャは、絵馬にナターシャのお願いを書きたいんダヨ」 と。 それが、ナターシャが神社に行きたい理由。 先日、あるアニメ作品とのコラボで地域活性化を図り、痛絵馬だらけになった神社のニュースを見て、ナターシャは、絵馬という 神様へのお願いツールがあることを知ったばかりだったのだ。 「『今よりもっと可愛くなれますように』って、お願いするのかな?」 蘭子の推察に、ナターシャは首を横に振り、 「『パパのお嫁さんに なれますように』に決まっている」 氷河の推察(断言)に、ナターシャが何らかのリアクションを起こすより先に、星矢が 呆れた顔を作るというリアクションを示すことになった。 呆れた顔で、星矢が氷河に言う。 「おまえ、まだ、その野望を捨ててなかったのかよ?」 『パパのお嫁さんになる』と言い出す前に、パパの娘はパパのお嫁さんになれないことを ナターシャが知ってしまったために、氷河は、全世界の娘の父親の憧れのフレーズ『パパのお嫁さんになる』を、愛する娘に言ってもらうことができなかったのだ。 氷河は、自らの その不運を ずっと嘆いてきたし、今も嘆いていた。 氷河にとっては残念なことに、ナターシャが絵馬に書きたい お願いは、もちろん『パパのお嫁さんになれますように』ではなかった。 「違うヨ! ナターシャは、『ナターシャの言うことをよく聞く、パパみたいなイケメンの弟をください』って、お願いするんダヨ!」 「は?」 「へ?」 「なに?」 「え……」 「あらぁ」 『意外』と、その場にいた大人たちは全員 思った。 まずは、“綺麗で可愛い自分”。でなかったら、自分を可愛くするための洋服やアクセサリー。 ナターシャが欲しがるのは、おそらく そういうものだろうと、その場にいた大人たちは 皆、思っていたのだ。 「あら、妹じゃないの? ナターシャちゃんは、綺麗で可愛いものが好きだから、てっきり……」 弟(男の子)は 綺麗で可愛いものではないと言うつもりは、蘭子にはなかっただろう。 何といっても、蘭子は女の子より男の方が好きなのだから。 蘭子のその発言は、『現代の日本国では、女の子をリボンや花で飾ることは一般的で微笑ましいこととされているが、男の子をリボンや花で飾ることは一般的ではないだろう』というような意味の、まさに一般論に基づく推論だった。 その推論は、外れていたが。 「妹は いらないヨ。もしナターシャより可愛かったら、パパがナターシャより大好きになるかもしれないから、妹は駄目なんダヨ。ナターシャは、弟がいい。それで、マーマみたいに、いっぱい甘やかしてあげるノ。パパはマーマの甘やかし人形だから、ナターシャはナターシャの甘やかし人形が欲しいんダヨ」 「は?」 「へ?」 「なに?」 「え……」 「甘やかし人形?」 『何だ、それは』と、その場にいた大人たちは全員 思った。 代表して、蘭子が証言台に立つ。 「何なの、その甘やかし人形っていうのは」 「星矢ちゃんが、そう言ってたんダヨ。マーマはパパを甘やかしてばかりいて、パパはマーマの甘やかし人形だって」 「へ? 俺?」 言った当人は、無責任にも、自分の発言を忘れていた。 氷河がじろりと星矢を睨む。 無責任に忘れていた事実は事実として、その発言の内容自体に誤りがあるとは思えなかった星矢は、氷河の睥睨に怯むことなく、逆に氷河に噛みついていったのである。 「実際、おまえは、瞬に我儘をきいてもらってばっかりいるだろ。ナターシャのマーマになってもらったのなんて、その最たるものだ。普通、泣いて頼まれたって断るぞ、そんな非常識な頼み」 「む……」 氷河は、それを、自分の我儘だとは思っていなかった。 ゆえに、それは当然、甘やかしでもない。 それは瞬の優しさ。あるいは、未熟で頼りない父親志願に幼い子供を任せておけないと考えた瞬の道義心なのだと思っていた。 それ以前に、“甘やかし人形”という呼び方が聞こえが悪い。 だが、反論することもできず――口をへの字に引き結んだ氷河に、勝利を確信した星矢は、勝者の余裕で、それきり氷河を構うのをやめたのだった。 無様な敗者を顧みることなく、ナターシャの方に向き直る。 「ナターシャの弟かあ。俺に斡旋できるのは、神輿の担ぎ手くらいのもんだしなー」 星の子学園には、ナターシャの お兄ちゃんになれる歳の子供しかいない。 女子中学生はいるが、彼女等を氷河に斡旋しても、氷河は食指を動かすまい。それ以前に、それは犯罪行為である。 星矢には、ナターシャの望みを叶えるためにできることは なさそうだった。 「アタシが あと10歳も若かったら、喜んで、ナターシャちゃんの弟作り作業に協力してあげたのにー」 蘭子がいったい どういうやり方で、ナターシャの弟作りに協力できるというのか。 考えたくないことを考えてしまったのか、氷河の顔は 成形に失敗したクロワッサンのように引きつった。 「ナ……ナターシャが欲しいというなら叶えてやりたいが、こ……こればかりは……」 顔が成形に失敗したクロワッサンなら、声は 層を作るのに失敗したブースカフェスタイルのカクテルである。 そんな氷河に、星矢は、勝者の余裕で、助け船を出してやったのだった。 「まあ、その、なんだ。こういうことはさ、実際 弟が家に来てから、『やっぱり、いらない』で済まされないことだからな」 「『やっぱりいらない』で済まされないこともあるということを、ナターシャに学ばせるにはいいかもしれないが、なにしろ 軽々に扱ってはならない命の問題だから」 紫龍が口添えしたのは、あくまで星矢の発言に対してであって、蘭子の圧倒的迫力に押し潰されそうになっている か弱い氷河を守ってやろうと考えてのことではなかった。 そして、そう言いながら、紫龍が、瞬の上に視線を巡らせたのは、この件に関して 最も重要な関係者であるところの瞬が、先ほどから どんな発言にも及んでいないことを 奇異に感じたからだった。 「瞬……?」 黙り込んでいる瞬の名を呼ぶ。 話を聞いていなかったわけではないらしく、紫龍に名を呼ばれて はっと我にかえった瞬は、すぐに彼のコメントを付してきた。 「あ、うん。そうだね。命は死なせてしまったら、取り返しがつかない。同様に、命は、生まれてしまったら、取り消しはできない。それは どんな命でも同様で……。でも、それくらい 命は大切なものだってことを、ナターシャちゃんは知ってるよ。生まれたことの価値、生きていることの価値。ナターシャちゃんは ちゃんと知ってる」 声にも言葉にも、ナターシャへの深い信頼が感じられる。 ナターシャには 瞬の深い信頼を負担に感じている気配はなく、むしろ、そこまでマーマに信じられている自分を誇りに思っているように、 「もちろんダヨ!」 と、自信満々の返事と笑顔。 同時に、ナターシャは、二つの拳で可愛らしいガッツポーズを作った。 それでも、ナターシャは、弟が欲しいらしかったが。 「ナターシャの命を守るために、氷河が どれほどの我儘を通したか。氷河は、瞬の甘やかし人形っていうより、聖域の――いや、世界の甘やかし人形だろ」 「地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士を何人も動員し、だが、それが許されるほど命というものは大切なものだということだ」 星矢と紫龍は、氷河の甘やかされぶりを とうの昔に諦めている。 彼等は、半ば ぼやくように そう言った。 瞬たちは、蘭子には、聖域のこともアテナの聖闘士のことも ナターシャの正体も知らせずにいる。 が、殊更 隠してもいなかった。 蘭子の方も、会話に その手の言葉が出てきても、『それは何?』と尋ねてはこない。 根掘り葉掘り訊き込んで、正義の味方の正体を白日の下に さらすのは不粋なこと。 粋な江戸っ子の蘭子は、それがわかっているのだ。 「アタシの人脈も相当だけど、氷河ちゃんの人脈は 思いがけないところに繋がってて、助かるわァ。じゃあ、星矢ちゃん、子供たち動員の件、お願いね。実は寂しがりやの大人の江戸っ子たちに、希望をちょうだい」 もともとの目的を すべて果たして満足した蘭子は、余計な詮索はせず、豪快な勝利の呵々大笑を残し、ご機嫌で、氷河と瞬とナターシャの家を辞していったのだった。 |