氷河たちが船に乗って島を離れてから、氷河の時計で30分も経つと、それまで青い海だけを映していたパネルに、陸地が映しだされ始めた。海に注ぎ込む豊かな河の流れに沿って内陸に進むこと、更に5分。河の両岸に広がっていた緑が途切れ、赤茶けた剥き出しの地面とその上に整然と並ぶ建物が、八面のパネルの中に忽然と現れた。先刻廃墟で見たものと同じようにレンガで作られたそれらの建物は、一階建てなら、かなり天井の高い造りになっているように思われた。 いずれにしても、これは前近代的な世界である。町はかなりの規模を有していて、ちらほらと人影も見えたが、それは横浜や東京のような都市とは比べものにならないほど、静かで和やかでのどかな風景だった。 乾燥地帯のこじんまりとした集落の規模が大きくなったもの――あるいは、エジプトかメソポタミアの古代都市――といった感がある。一軒の建物に一家族四人が住んでいるとして人口約3万、と氷河は踏んだ。 石畳でできた幅の広い道が、町を中央で分断している。道幅は50メートルほどで、形の不揃いな石を敷きつめてできていた。石の種類まではわからなかったが、その道は、赤茶けた大地やレンガの家々の間で、人工雪でも降らしたように白く陽光を反射していた。 「わ、あれ、ピラミッドみたい!」 観光旅行に来ているわけでもないのに、なぜそんなに呑気な声なのかと思うほど明るい声で、絵梨衣が突然パネルの中の一面を指さした。こんなことなら、口の悪い嫌味な男を演じてまで気を遣ってやることもなかったと、つくづく氷河は後悔したのである。 ともかく、絵梨衣の指し示したパネルには、確かに四角錐の建造物が映っていた。 「石…じゃないよね。あれもやっぱりレンガでできてるみたいだ」 「聖塔【ジッグラト】……に似てるな…」 「でも遺跡じゃない。造ったばかりみたいに見える」 「ああ」 瞬の方が絵梨衣などよりはるかに不安と混乱を感じていることは間違いないのに、氷河は瞬と話をしている方がずっと落ち着いていられた。瞬はいつも、氷河の言いたいことを的確に汲み取って、半歩先の答えを返してよこす。瞬のこういうところが、氷河はとても気に入っていた。 瞬は聖和入学時はBクラスの生徒だった。2年になってAクラスにあがってきたが、聖和には試験の成績だけなら瞬より出来のいい生徒がいくらでもいる。だが、そういう生徒のほとんどは試験の成績だけがいい、ただの馬鹿だった。 瞬ほど側にいて気持ちのいい人間を、氷河は知らなかった。その瞬とスムーズに会話が進み、いざ本題に入ろうとした時、 「雪代くん。ジッグラトって何? それ、ミニチュアのピラミッドか何かのこと?」 思いっきりテンポを狂わせてくれる絵梨衣の『せんせー、しつもーん』が割り込んできて、氷河はがっくりと肩を落とした。 瞬がまた、懇切丁寧な説明を始める。 「メソポタミア文明の遺跡によく見付かる、レンガでできた四角錐のことですよ。ピラミッドは切り出した石で作るけど、ジッグラトは土でできたレンガを積み上げたものなの」 「ピラミッドみたいに王様のお墓なの?」 「宗教神殿と言われてるけど…ピラミッドだって王墓じゃないって説があるくらいですから、確かなことはわかってないんじゃないかな」 「わかってないんだ。ふーん…」 絵梨衣はまるで、瞬を観光ガイドか何かだと思っているようだった。氷河が一言文句を言ってやろうとした時、ひときわ甲高い絵梨衣の歓声が船室に響く。その歓声の源をパネルの映像の中に見い出して、瞬は、そして氷河も――声を失った。 乳の川のような道の向こうに、巨大な銀色の宮殿――としか言いようのないものが、現れたのだ。氷河の目に、それは、バロック様式と近代の建築様式の入り混じった建築物に見えた。宮殿の前に並び立つレンガ造りの家々とは、全く趣を異にしている。中央にドーム状の丸い建物があり、そこから五本の渡り廊下のような細い建物が放射線状に伸びていて、その先に大きな四角い建物が続いている。そして、その四角い建物を繋いで、ドームを囲むように、また、渡り廊下のような細長い建物が建っていた。つまり、それは、放射線状の廊下の数だけ中庭がある、五辺形の宮殿だった。 宮殿は町の三分の一を占めるほど巨大で、宮殿を境に、町の反対側には、緑の草原が広がっている。氷河たちの乗った有翼円盤は、その草原に着地した。 宮殿から20メートルと離れていないところに降りることができたのは、その円盤の垂直着陸の機能のためだったろう。同じ長さの翼を持つジェット機なら、数キロの滑走路が必要なところである。 船を降り、宮殿の中に案内されて、氷河たちはまた驚いた。レンガで作られたものではないだろうとは思っていたが、その建物は、あの廃墟で見たプラチナのような建材で外側がコーティングされており、内側は壁も廊下も磨き抜かれた石――石英に似た石――でできていた。装飾はほとんど無いに等しいのだが、その石英の微妙な色合いが、優れた調度品の代わりを果している。しかも、宮殿内は温度・湿度の調整までが為されているらしく、換気のための窓もないのに、空気は清浄で澱みも感じられなかった。 「すごいな、これ。空調の効いたビルだって、絶対どこかに空気の澱みがあるものなのに」 だが、その建物以上に氷河たちを驚かせたのは、瞬の呟きを聞いたスカート男が、それに答えたことだった。 「あのように埃っぽい島で夜を過ごされたのでは、大変お辛かったでしょう。ですが、こちらに参りましたからには、もうご不自由はおかけしません。お望みのものがございましたら、何でもお申しつけ下さい。大概のものはご用意できると思います」 「え…」 思いがけない返答に驚いて、弾かれたように振り向いた瞬に、スカート男は軽く会釈した。 「名乗ることもできず、ご無礼いたしました。私はムスタバルと申しまして、ただいまのこの宮殿の主ウルカギナ・エンの弟でございます」 「あなた、私たちの言葉がわかるのっ!?」 スカート男ことムスタバルの自己紹介を遮って、絵梨衣が噛みつくように尋ねる。 ムスタバルの返答はあっさりしたものだった。 「いいえ」 「で…でも…」 絵梨衣は合点のいかない様子だったが、ムスタバルの言うことは事実だったろう。 氷河たちの耳に聞こえるムスタバルの言葉は、相変わらず意味不明の音だったのだ。だが、頭では――脳では彼の言葉の意味が理解できる。変わったのはムスタバルの言葉ではなく、氷河たちの理解力――と言った方が正しいような状況だったのだ。 「この宮殿内では、全ての言葉が全ての者に理解できるようになっているのです。蛇の宮殿ですから」 「蛇? 脚がなくて地面を這ってる、あの蛇か? まさか、その蛇とやらが、この建物の主だと言うんじゃないだろうな」 ムスタバルに促され歩きだした廊下は、左右と下から鈍い光を放って氷河たちを包んだ。天井だけが光を反射しない建材でできている。 「蛇は、王に世界を統べる力を与えたもうたお方。美しく、慈悲深く、御心清らかにして、俗世の欲望に縁のない至高の存在と伝えられております。…詳しいご説明は、王の御前で」 瞬と絵梨衣の足が傷付いていることに気付いたのか、ムスタバルは歩調を緩めた。彼はどうやら、今の今までそのことに気付かずにいたらしい。あれだけじろじろと遠慮のない視線を瞬に向けていたくせに、いったいこの男は何を見ていたのかと、氷河はひどく不快になった。 が、言葉が通じるとなると、得体の知れない相手に言いたいことを言いまくって、背負いこまなくてもいいトラブルを自ら背負いこむわけにもいかない。今俺は一人ではないのだから、と氷河は自重した。自重して、氷河は、代わりに運命共同体の片割れをからかって、鬱憤を晴らすことにした。 「よかったな。お望み通りファンタジーぽくなってきたぞ」 期待通り、絵梨衣の顔が歪む。 「いくら綺麗で清らかだって蛇は蛇でしょ。竜とか毛並みの綺麗な獣とかいうならともかく、蛇なんて、ただの太ったミミズじゃない」 絵梨衣の反応は全く氷河の予想通りで、氷河は、ぷっと膨らんだ絵梨衣の頬を見降ろし苦笑した。何が何だかわからず、次の展開が皆目予測できないこの世界で、絵梨衣の言動の読み易さは実に貴重だと、彼は思った。これほど重宝な玩具は、滅多にない。なぜ竜ならよくて、蛇は駄目なのか――根本的なところは相変わらず理解できないのだが、単純と日常の象徴ともいうべき絵梨衣の反応は、氷河をとても楽しませてくれるのだ。 絵梨衣をからかって少し気分がよくなった氷河は、前を行くムスタバルに再び問いかけた。 「しかし、この廊下のどこに翻訳機があるんだ? 俺には、あんたの言うことが、完全に俺たちの使っている現代日本語に翻訳されて聞こえるぞ? 俺たちのいたところにも音声翻訳機はあったが、それはあらかじめ日本語なら日本語の語彙と言語体系をコンピューターに登録しておいて翻訳するようになってるのに――まあ、完全言語なんてのを提唱している学者もいたにはいたらしいが」 「完全言語? なに、それ」 氷河が尋ねたのはムスタバルに対してだったのだが、横から口を挟んできたのは絵梨衣だった。氷河は、そして、もちろん、絵梨衣にいちいち説明してやる親切心の持ち合わせはなかった。 「説明は瞬の仕事だ。おまえに理解できるように噛み砕いて説明するなんて疲れることは、俺にはできないんでな」 絵梨衣も、それを氷河に期待してはいなかった。氷河から瞬に視線を移す。 放り投げるように氷河からバトンを渡された瞬は、気を悪くした様子も見せずに口を開いた。 「言語を構成する音は、聴覚だけじゃなく、視覚や味覚なんかにも一定の刺激を送るものだっていう考え方があるんです。その考えに立脚して、完全な言語を作ろうとした人たちがいたの。たとえば"稲妻"のことを他人に伝えようとした時に、稲妻の光が見え雷鳴が聞こえるような音を作りだせば、人は、映像や音響のリアルな体験を通じて意味が理解できるんじゃないかって考えたんですね。ライプニッツの"結合法論考"やバッハの作曲法なんかが有名ですが」 瞬が『有名』と言ったものを、当然絵梨衣は知らなかった。 「わかんない。音は耳に聞こえるものでしょ。目に見えるものじゃないじゃない。そんな言語があったとしても、稲妻なんて目に見えるものならともかく、目に見えないものは伝えられないじゃない。人の感情とかは」 「むしろ目に見えないものの方が伝え易いんですよ。たとえばシューマンのトロイメライを聞いて、さあ今日も頑張るぞーって気にはならないでしょう? いくら絵梨衣さんが元気な人でも。あれは穏やかさや静寂を表す音で……。僕なんかは、ペールギュントの"朝"を聞くと、朝靄のイメージがあるのか、白い色を感じるんです。もちろん、それは、僕の個人的な経験から得られる色や感情だろうけど、万人に同じ感情を思い起こさせる音があるはずだから、それで言葉を作ろうと考えた人たちがいたんです」 今日も、絵梨衣はわかったようでわからなかった。ただ、これは絶対に"常識"ではないと、絵梨衣はそれだけは確信した。 「でも、そんな言葉ができたって、人間は聞くだけで喋れないじゃない」 「そう。人間には喋れない。だけど意味は誰にでもわかる。だから、完全言語は神の使う言葉だって言われてるんです」 「あ、それはわかる気がする。神様が日本語しか喋れなかったら、他の国の人たち、困るもんね」 瞬がこれだけ噛んで含めるように説明してやったというのに、その成果がたったそれだけなのかと、氷河は呆れてしまった。それでも軽蔑の色も見せずに微笑んでいられる瞬は、実に寛大な人間だと思う。そして、瞬がそこまで寛大になってしまった原因を思い起こし、氷河は暗い気持ちになった。その気持ちを振り払うために、氷河はもう一度ムスタバルに話しかけた。 「…で、実際のところはどうなんだ。どういう仕組みで翻訳されてるんだ?」 氷河は、しかし、望む答えを手に入れることはできなかった。ムスタバルはいみじくも至極あっさり言ったのである。 「皆様のおっしゃっていることは、考える必要のないことなのではございませんか? 実際こうして意思の疎通ができるのです。何の問題がありましょう」 と。 氷河はその返答に目を剥いた。細く高い口笛を、石の廊下に響かせる。 「相沢を超えてるな」 自分の答えを氷河が不満に思ったことは、ムスタバルも気付いたらしい。彼は言い訳のように言葉を継ぎ足した。 「この宮殿は、蛇が初代の王にお与え下さったものです。蛇の作りたもうたものは、我々の理解を超えております。我々は使い方を知っているだけ。皆様をお運びしたあの船も、私は動かし方を知っているだけです」 「それって、私たちがテレビのスイッチの入れ方は知ってるけど、どうして映るのかはわかってないのと同じかな」 「……」 そんなことも知らない人間が、まさかこんな身近にいるなどとは、氷河は考えてみたこともなかった。 「テレヴィ…とは…?」 ムスタバルが、絵梨衣の言葉を繰り返すように反問してくる。 長い廊下を歩いている間に氷河が知りえた情報は、どうやらこの世界にテレビはないらしい――ということだけだった。 |