生まれたばかりの氷河は、可愛かった。 本当に食べてしまいたいくらい可愛かった。 弓崎瞬は小学校以降の氷河しか知らないし、身長が一九〇を越えてしまった氷河の姿が最も鮮明な記憶として残っているんだけど、この小さな氷河がやがてあんなに大きくなるんだと思うと、なおさら小さな命が愛しくてならなかった。 氷河が毎日少しずつ大きくなり、やがて自力で立ちあがった時には、僕は自慢げに基臣さんに氷河の"たっち"を披露してみせた。初めて『ママ』と呼んでもらえた時には、記念に基臣さんと二人で、その声を録音したりもした。庭を走りまわって転んで泣きだした氷河をなだめる時、僕の姿が見えなくなると泣きながら広い家を捜し始める氷河を、今度は僕の方が捜しだして抱き上げる時――僕の全ての時間を、氷河と基臣さんは幸福な時にしてくれた。 その頃には、基臣さんは代表権付きの専務取締役になっていて、仕事の方もかなり忙しくなっていたけど、相変わらず優しかったし、相変わらず信じられないほど情熱的に僕を愛してくれていた。 僕は確かに、疑いなく、世界で最も幸福な人間だった。 そんな折り、折橋早雪の両親が自動車事故で亡くなった。氷河の三歳の誕生日を高生加家に祝いに来て、その帰路のことだった。 僕の心の中にはずっと、折橋の両親は仮の親だという意識があった。基臣さんが結婚の申込みに来てくれた時も、両親が反対するなら親など捨ててもいいと、何の葛藤もなく思ってしまえた。 でも――それでも、僕は、折橋の両親を愛していたものらしい。両親の死の知らせを聞いた時には、目の前が真っ暗になったような気がした。 葬式を済ませると、緊張の糸が切れたように寝込んでしまい、二週間ほど起きあがることもできなかった。それでなくても僕は、氷河を産んだ頃から体力が落ち、すぐ貧血を起こし、ひどく疲れやすくなっていた。 でも、両親を亡くした喪失感も、やがて基臣さんと氷河が癒してくれた。 両親の遺産相続のごたごたは、相続税や両親の住んでいた家の処分、折橋建設の後継の問題等、一切基臣さんが取りはからってくれて、結局僕が折橋建設の筆頭株主として、当時で七億相当の株式を所有することになった他は、折橋の親族は折橋建設の直接の経営から手を引くことになった。 そんなふうな雑事が全て一段落し、僕が再び氷河と遊んでやれるようになった頃――僕は自分の死を考え始めるようになった。両親の死が直接のきっかけだったが、あの不幸な事故がなくても、それは考えずにいられる種類のものではなかった。 氷河は六歳で母親を亡くすんだ。 僕はこの可愛い氷河と優しい基臣さんを残して、死んでいかなければならない。 その確かな未来は、今が幸福すぎるほどに幸福な分、僕の胸を切なさで締めつけた。二人と離れるのがどうしようもなく恐かった。 僕は、氷河が、母のない寂しさから弓崎瞬と親しくなっていったことを知っている。あの強くたくましい基臣さんが、早雪に似ているというだけの理由で弓崎瞬を求めていくことを知っている。 僕は、二人にそんな哀しいことをさせたくなかった。 でも、僕が――高生加早雪が――亡くならなければ、瞬が氷河や基臣さんと深い関わりを持つこともなく、瞬の死の間際の願いもなく、今の僕の幸福もまた消えていってしまうんだ。 僕は――最期の日が近いことを知っているからなお一層、氷河と基臣さんを愛した。僕に幸せをくれた二人に、哀しみしか残してやれないことを償うように、必死で二人を慈しんだ。 そして二年後、僕は、自分が基臣さんの二人目の子供を宿したことを知った。 高生加早雪が氷河の弟か妹を流産して死ぬことは、瞬だった頃に氷河から聞いて知っていた。いよいよ死が間近に迫っているんだと感じる一方で、僕は不思議な考えに支配され始めていた。 自分は死んでもいい。けれど、基臣さんの子供だけは必ず産んでみせる――という決意に。 それは母性本能というのだろうか。それとも、弓崎瞬ではなく高生加早雪の女としての叫びだったのだろうか。僕はどうしても氷河の兄弟を産みたかった。 氷河の兄弟が残されれば、氷河も基臣さんも、早雪を失った哀しみにばかり支配されてはいられないだろう。氷河は、寂しさから、同じ寂しさを持った友人を求めることもせず、そうすれば基臣さんだって瞬と知り合うこともなく、あんな哀しい関係を持つこともなくなるかもしれない。 死が間近になるにつれ、僕は弓崎瞬や高生加早雪の幸福など、どうでもよくなっていった。 僕が願うことは、氷河と基臣さんの幸福だけだ。たとえ、弓崎瞬が心を開ける友達のない孤独な子供になっても、折橋早雪が僕の記憶と意思に支配されることなく人生を過ごすことになっても、そんなことはどうでもいい。僕の氷河と僕の基臣さんが、これからも誰よりも幸福な時を過ごすことが――それだけが、僕の幸福を真の幸福にしてくれるただ一つの証なんだ。 僕は、そう考えるようになっていた。 |