あれは氷河が高三の年の瀬だった。 受験生の親なら、多少なりとも息子の勉強の進み具合を気にかける時期だったろうが、なにしろ俺は氷河が志望大学に合格することを知っていた。だから、そういう方面のことは全く気にかけず、わざと仕事のスケジュールをきつくしていた。 その日も、1時に瞬が訪ねてくる予定だと聞いて、その前に家を出ようとしていたんだが、車の準備ができていなくて、俺は苛立っていた。 「1時5分前には車をまわしておけと言っておいただろう! 何を聞いていたんだ!」 玄関ホールにある電話でガレージにいる運転手を怒鳴りつけていた時だった。瞬が俺の前に姿を現したのは。 「氷河! 車の用意なんかさせて、どこ行く気なの! 今日は小論文やるって約束してたじゃない!」 俺の声を氷河のそれと勘違いしたんだろう。 頬を上気させて玄関に飛びこんできた瞬は、開口一番、俺を怒鳴りつけた。 クリーム色のセーターに、僅かに茶色がかった柔らかい髪がかかっている。忘れようもない大きな瞳が、俺を映しだしていた。 「あ…す…すみません! 失礼しました! 氷河…氷河の声が聞こえたんで、僕、てっきり…」 人違いに気付いた瞬が、慌てて謝罪を始める。 「……瞬…」 懐かしい、五十年以上昔の俺の初恋。その優しい面立ちが、あまりに記憶通りだったんで、俺は思わずその名を口にのぼらせていた。 「え?」 瞬が不審げに俺の顔を見あげる。 急いで、俺は場を取り繕った。 氷河の父の仮面を、その顔に貼りつける。 「瞬くん、だね」 「あっ…あの、はいっ! 僕、弓崎瞬です。もしかして氷河の――氷河くんのお父さんですかっ」 「そんなにかしこまらなくていい。氷河ならちゃんと自分の部屋で先生が来るのを待っているよ」 初めて会う親友の父親の前で緊張しまくっているらしい瞬から、俺は目を離せなかった。部屋から出てきた氷河が瞬を連れていくのを、俺はずっと見詰めていた。 なぜこんなにも胸が騒ぐのか理解できない。俺は今でも早雪を――早雪だけを愛している。それなのになぜ、五十年も前に失われた初恋が、こんなにも切なく思い出されるんだろう。思い出と少しも変わらない瞬の面差しが、高生加氷河だった頃の心を俺の中に蘇らせてしまったんだろうか。 俺は、だが、すぐにその思いを振り払った。 あの夜は、あってはならない夜だ。 確かに俺は、あの夜を俺のものにしたくて高生加基臣に生まれ変わった。だが、それは決して望んではいけない夜だ。望んではいけないのだと、俺は自身に言いきかせた。 |