だが、ニコルのその言葉は、彼の吐息ややわらかな肌と同じように、クルーゼの耳に甘く心地良く響いた。

たった一人──確かに、それはたった一人でもいいのかもしれない。
魂のすべてで愛することのできる相手。
そして、その人に愛されることができたなら。
人はそれだけで、他のすべてのことを──人間の弱さも醜さも、存在することの無意味さすらも、乗り越えてしまえるのかもしれない。

だが、その“ただ一人の人”を望める者もまた、その機会と権利を与えられた者だけである。
そして、その権利を、クルーゼは有していなかった。
それ故に、クルーゼは、ニコルが語る美しい幻想を振り払った。

「誰もが自分以外の誰かを──全ての人間を、なんて実際的な理想は言いません──たった一人だけでもいいから誰かを、自分の命より愛していたら、誰もが、その人のために世界に優しくあってほしいと願うんじゃないでしょうか。みんながそうだったら、きっと世界は──」

この世界は良い方向に変わっていくに違いないと、ニコルは言うのだろうか。
人がたった一人の誰かを愛することくらいで、憎しみも争いも妬みもない美しい世界が、人類の前に出現するとでも?
そんな甘い夢を積み重ねた末に出来上がったのが、今の“世界”と“人間”だというのに。

「そのたった一人の人のために、人は生き延びようとして、その人の命とその人の生きる世界を守ろうとする。それを希望と言うのも、未練と評するのも、悪あがきと思うのも、それは隊長の勝手でしょう。でも、一生懸命に生きようとしている人たちを、邪魔しちゃいけません。絶対に!」

「…………」
必死の目をして訴えてくるニコルを、クルーゼは、しばらく無言で見詰めていた。
それから、彼は、
「そんな夢物語を言っているのが、おまえ以外の誰かだったら、『それが人間の愚かしい甘さだということが、なぜわからんのだ!』──だな」
と、“敵”に対峙した時のラウ・ル・クルーゼの口調で、ニコルに告げた。


「──隊長……」
途端に、ニコルの瞳が悲しげに曇る。

その瞳が潤む様を見ているうちに、クルーゼは、ニコルの持つ心地良い甘さの中に溺れてしまいたいような気分になっていった。
ニコルの言うように、いっそ何もかもを捨てて──自分を創りだした者への憎しみも、その自分が存在する世界への不快も、そして、何よりも自分自身への嫌悪を捨ててしまえたなら、どれほど楽だろう──と思う。

だが、それこそが、もはや叶わぬ夢だということを、クルーゼは痛いほどに自覚していた。

ニコルの側を離れると、クルーゼの中には、自分のような無意味な存在を創りだした世界というものへの憎悪が蘇ってくる。
それは、クルーゼ自身にも抑えることのできない憎しみだった。

それこそが──自分という存在に与えられた理不尽への怒りこそが──、これまでずっと、彼が生き続けるための力になっていた。
そして、ニコルが側にいない時にも、クルーゼは生きて“世界”に存在しなければならなかったのだ。






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