私がこの世界に生まれてきたのはなぜ その果てにあるものは死だけなのに、 生き続けるのはなぜ いつも考えていたの そして、答えは見つからずにいた あの時まで あの時、私は初めて知った 水神【エンキ】の慈悲 天神【アン】の広さ 地神【エンリル】の力強さ 月神【ナンナル】の清冽 太陽神【ウトゥ】の暖かさ 大地母神【ニンフルサグ】の豊穣 すべては二人のためにあったのだと、 教えてくれたのは愛の女神【イナンナ】 すべてわかったの あなたに出会ったその瞬間に 母がよく口ずさんでいた歌。いつも父に歌ってきかせていた恋歌――を、なぜかナキアは思い出していた。あの歌の輝くようなその"瞬間"を知らぬまま自分は死んでいくのだと、おぼろげに、そして絶望的に悟った。 ひどく悲しかった。 せめて、その瞬間を、正しくただの一瞬間でもいいから実感して死にたいと思った。 霞む視界いっぱいに映るのは、悠久の大河【ブラヌン】――。 ナキアの仕事は日乾しレンガを作ることだった。堀り起こした土に水と切り藁を混ぜてこね、木型にはめ込む。時を置いて型から取り出した直方体の塊を天日にさらす。そうして出来あがったレンガを、住居を作ろうとしている村人たちに提供するのだ。 ナキアが十日もかけて作った日乾しレンガの代償に、村人たちは二、三日分のニンダが焼けるほどの大麦が入った袋を投げてよこす。 時には、いくたりかのナツメ椰子の果樹で支払いを済ませようとする村人もいた。それでもナキアはいつも、その僅かばかりの代償を黙って受け取っていたのである。 ナキアよりはるかに粗雑なレンガを作る男たちが、ナキアの五倍以上の報酬を得ていることは知っていたが、彼女はより多くの報いを村人たちに求めることはできなかったから。ナキアは村人たちのお情けでこの村に住むことを許された異質な者――だったから。 亡くなった父も母もこの村の者ではない。 十七年前のある日、ナキアの両親は北からの風と共にこの村にやって来た――らしい。身なりはみすぼらしかったが、体格優れ整った顔だちの夫婦を、村人たちは親切に受け入れた。だが、数カ月後夫婦の間に生まれた一人の子供が、村人たちの親切心を夫婦の上から取り除いてしまったのである。 生まれてきた子供の髪は、大河【ブラヌン】が西方から運んでくる土のような黄褐色、否、むしろナツメ椰子の葉の上で跳ねる陽光のような金色だったのだ。 村人たちは、それまでそんな色の髪の人間を見たことがなかった。村人たちの髪は、多少の濃淡の差はあれ、みな闇の色をしていたし、金色の髪の子の両親もそれは同様だったのだ。 忌むべき金色の髪の子のために、村の中でも最下層の人間としての扱いを受けることになったナキアの両親は、働いて働いて、そして死んでいった。 ナキアが五つになったばかりの第十一【シャバト】の月だった。強い北風が吹き、ナキアの髪に似た黄褐色の土埃が村の風景を霞ませていた。 両親の弔いをしてくれたのは村の地主の奴隷たちだったが、地主は代わりにナキアから両親の築いた家を取りあげた。ナキアにもさっさと死んで欲しいと思っているのが容易に見てとれる冷えきった目をして。 実際ナキアは死んでしまっていただろう。その時、地主の冷酷な仕打ちに恐怖してとぼとぼと村の外れに出ていかなかったら。 ナキアの村は大河【ブラヌン】の河口近くにあった。時々他国の船が港から村の近くまで河を逆上ってくる。その日も、メルハからやってきた大きな船が広い河の中央に停泊していた。周りには小型の葦船が二・三艘のどかに浮かんでいる。河岸で休息を取ろうとしていたらしい商人や船乗りたちが、気のいい笑顔でひとりぽっちのナキアに話しかけてきた。 「なあ、坊主。坊主の髪を一房、俺にくれねぇか? こんな珍しい髪はきっと魔除けになる。ん? 何と交換がいい?」 ナキアが黙ったままでいると、彼は短刀を取り出して、ナキアの髪を一房だけ切り取った。 「ありがとうよ、坊主」 ナキアの頭の上で二・三度撥ねた船乗りの手は、押し黙ったままのナキアの手に、彼の瞳ほどの大きさの青い石を握らせた。 「そいつはいい石だぜ。黄鉄鉱が多く入ってるラピスラズリだ。そいつを売っ払って、美味いもん食いな。おまえ、痩せすぎだぞ」 「……?」 価値のわからない石を持って、ナキアが地主の元を訪れると、彼は目の色を変えてその石をナキアから取りあげ、そして彼は一ヵ月は食いつなげるほどの大麦の粉をナキアの前に積みあげたのである。 それから十年と少し、もう駄目だと思うたびに、ナキアには必ずどこからか救いの手が差しのべられた。運命を定める七神が『私たちはいつもおまえを見守っているよ』と、ナキアの耳元に囁きかけているかのように。 「でも、それも今日で終わりかなぁ…」 河岸の野性のナツメ椰子の木に上体をもたせかけ、ナキアは力無い声で呟いた。 大河の河畔は豊かな水の恵みを受けた緑で覆われている。大麦やエンマー麦の畑、ナツメ椰子やイチジクの果樹園――。 だが、その豊かな畑を耕す人間たちは、河から離れ乾燥した場所に土と粘土で集落を作り、埃にまみれながら暮らしている。 「どんなに狭くてもいいから、畑があればなぁ…」 村人の噂では、聖市エリドゥの王は都の周囲に大規模な灌漑工事を進めているらしい。新しい運河を造り、その運河に沿って開墾した畑を民に与えているのだそうだ。食うに困った者たちや新しい土地を求める者たちは故郷の村を捨て、どんどんエリドゥの都に集まっているということだった。 十日前、最後にニンダを食べたあの日に、この村を出ていればよかった――と、ナキアは後悔していた。三日も歩けばエリドゥの都には辿り着けたはずだ。そうしていれば、今こんなところで飢えて死んでいくこともなかったのに――。 せめて渇きを癒そうと、ナキアはナツメ椰子の木にもたせかけていた体を起こした。 目の前には黄褐色の土を含んだ黄土色の大河。ほとんど雨の降ることのない大地を潤す、ただ一つの命の源。天より王権がエリドゥの都に定まった遙かな昔から変わらない静かで豊かな流れ……。 いっそこの命の大河に自分のすべてを委ねてしまおうかと考えた――ような気がする。が、実際にそうしたのかどうかはわからない。 体を起こした途端に急な目眩いに襲われて、ナキアの体は大河のほとりに崩れ落ちた。 (あの一瞬を知らずに私は死ぬんだ…) 優しく力強い大河の流れの音が、母の歌う恋歌に聞こえる。ナキアは、運命を定める七神が差し出す両手の幻を見たような気がした。 |