翌朝、ナキアは、不思議に心地良い音に誘われるように目を覚ました。 だが、それを"音"と言ってしまっていいのかどうかを、しばらくナキアは寝台の上で判断に迷っていたのである。それは耳を通してではなく頭に――あるいは魂に――直接響いてくるようにナキアには感じられたのだ。 心を穏やかに安らがせ、それでいて活気をもたらすような響き。自分はここにいていいのだと、自分が生きていることには意味があるのだと感じさせる波動。そして、人間の生は善を為すためにあるのだと教え諭す言葉。 初めての場所。見知らぬ人々。突然与えられた変化に違和感や戸惑いを覚えていいはずの朝だったのに、ナキアはその日、常になく爽やかで清々しい目覚めを迎えたのだった。 (何だろう…今の音……声…? 善いことをしなさいって言ってる…?) 不思議に思いながら、ナキアは寝台を抜け出し窓辺に歩み寄った。そこから外を眺め――ナキアは思わず喚声をあげたのである。 大河から流れてくる白い朝霞に霞むエリドゥの都。眼下に広がる街の美しさと壮大さが圧倒的な力をもってナキアに迫ってくる。くらくらと目眩いを感じて、ナキアは慌てて窓の外から室内に視線を転じた。 寝台があり、香柏でできた小さな卓と椅子があり、何よりも天井と壁のある、人の住む場所。両親を亡くすと同時に家を奪われてから後、こういう閉じられた空間に足を踏み入れたことがほとんどなかったナキアだが、閉所に息が詰まるという感覚は全くなかった。 それは、この場所はあの優しい紺青の瞳の人が与えてくれた部屋だという意識があったからだったかもしれない。ただ、 (私……ここにいてもいいのかな…。あの綺麗な人たちって何者なんだろう。あの人たち、神様じゃないのなら、なんで私にこんなに親切にしてくれるのかなぁ…) と、それだけが不思議だった。 ふと気づくと、香柏の卓の上の水差しの横に、何か輝くものがある。一瞬のためらいの後、ナキアはそれに手を伸ばした。 それが鏡というもので、そこに映っている頬のこけた老人のような顔が自分自身の顔だということに気づくのに、ナキアはかなりの時間を要した。奇跡か幻としか思えない美しい青年たちの面影がいまだにはっきりと脳裏に焼きついていただけに、ナキアは自分の醜さに衝撃を受けたのである。 強い陽光にさらされた褐色の肌。ぎすぎすと尖った顎。落ち窪んだ目と、げっそりこけた頬の線。この顔の持ち主を少女と思えという方が無理な話である。 これまで水鏡でしか見たことのなかった自分の醜悪さを自覚した途端、ナキアにはすべてがわかった――ような気がした。 バーニたちの親切は、運命の神が差しのべた救いの手ではなく、見たこともないほど醜い少女への関心だったのだ――と。そして、それはナキアにとって耐え難い屈辱だった。 「私、帰らなくっちゃ…!」 空【くう】に向かって呟き、ナキアがその部屋を出ようとした時、 「おはようございます、ナキアさん!」 突然、晴れた日の雲雀の歌のように朗らかな声が、室内に飛びこんできたのである。 「あら、ナキアさん、駄目よ。夜着のまま部屋から出ちゃ」 ナキアの部屋に入ってきたのは、十七・八歳の明るい笑顔の少女だった。長い黒髪を複雑に編み込んで右胸に垂らし、薄紅色の長衣を身にまとっている。 「え…夜着…?」 何を言われたのか、最初ナキアにはわからなかった。その少女が夜着と言った白い短衣は、昨日までナキアが身に着けていたボロ服よりはるかに肌を隠す割合の多いものだったのだ。 「私、イナというの。よろしくね。昨日、イルラ様とナディン様にあなたの身の周りのこと頼まれたの。だから、気張ってお世話させていただきまーす」 にこにこしながらそう言って、彼女はナキアに着替えらしきものを手渡してきた。 「イルラ様やナディン様から直接お言葉をいただけるなんて、ナキアさんのおかげ! 神殿にお勤めするようになって二年になるんだけど、あんなこと初めてで、私、夕べは嬉しくってちっとも眠れなかったのよー」 という言葉の割りに、イナには睡眠不足の様子はない。正しく元気そのもの健康そのもの、だった。 「さ、急いで着替えてね。一緒に食堂に行きましょ。他の女の子たちみんな、ナキアさんの話を聞きたいって待ってるのよ。昨日はみんな大騒ぎだったんだから。陛下と同じ馬に乗って誰かがやってきたーっ! って」 陛下と呼ばれるバーニが何者なのか――そんなことを、ナキアはもう知りたいとは思わなかった。どちらにしても、自分とは違う人、縁のない人なのだから。 「もういいの。どうでも。私、村に帰る」 「え!?」 夜着のまま部屋を出て行こうとするナキアに、イナが目をむく。 「ちょ…ちょっと待って!」 反射的に引き止めようとしたイナの手が空を掴む。イナの手を逃れたナキアは廊下に飛び出し、そして、何かにぶつかった。 「きゃっ!」 「わ…!」 ぶつかった相手は、薄茶色の髪の少年――昨日会った六人の美神の一人、白い菫の花のように可憐な、あの少年だった 「あ、ごめんなさい。急に人が出てくるなんて思わなくて…」 ナディンは、ナキアの肩にぶつかった額を手で押さえながらナキアに詫びてきた。 「あなた、昨日の…」 ナキアが何か言う前に、部屋からナキアを追ってきたイナが、慌てた様子でナディンの前に深く腰を折る。 「も…申し訳ございません、ナディン様…! お…お怪我はございませんか!?」 「あ、平気です。え…と、イナさんでしたよね。ナキアさんを朝食に誘いにきたんですけど、お連れしてかまわないですか」 平身低頭していたイナが、その言葉に弾かれたようにがばっと顔をあげる。 「朝食に誘いに…って、あの…ナディン様たちとですか!?」 「ええ、僕たち、朝の宣誓式が終わったので、これから食事なんですけど……早く来すぎたかしら。女の人って身だしなみに時間がかかる…ものなんでしょう?」 「まあ! まあ! まあ! まあっ!」 それ以外の言葉が出てこないのか、イナはやたらと甲高い声で同じ感嘆詞を連発し、ナキアとナディンを交互に見やった。 「す…すぐに着替えを済ませます! さっ、ナキアさん!」 ナキアの肩を押して室内に戻そうとしたイナに、ナキアはその場を動かないことで抵抗した。 「いいの。私、帰るの。私、こんなところに来るべきじゃなかった!」 「ナキアさん!?」 咎めるように、そして、困惑したように、イナがナキアの名を呼ぶ。その後ろで、ナディンが微かに首をかしげた。 「申し訳ございません、ナディン様。私、ナキアさんに何か粗相をしてしまったようで…」 「そんなことはないでしょう。ね、ナキアさん、どうして帰りたいんですか? 夕べ、ナキアさんがここにいらっしゃることになった大体の経緯を聞きましたけど、ナキアさんにはご家族はなくて、お一人で辛い生活を耐えてらしたって、そうウスルは言っていました。ですから、僕たち、少しでも早くナキアさんに健康になってもらって、そして、ナキアさんが生きる目的を見つけるお手伝いをしようって話し合っていたんです。…この神殿に何か気に入らないことがあったんですか? それとも不安になったの?」 ナキアのように栄養不足のためではなく、その幼さのために細い手足をした少年は、まるで小さな子供を諭すような口調でナキアに尋ねてきた。水色の瞳は、生きることの辛さをまだ知らない赤ん坊のそれのように暖かく澄んでいる。 「私…」 神の慈悲を拒んでいるようなやましさに捉われて、ナキアの声は掠れた。 「私、何もなかったからバーニたちについてここまで来たの。でも、私、ここがどういうとこなのか知らない。あなたたちがどんな人なのかも知らない。私、ここに来るまで、自分がどんなに醜い人間なのかも知らなかった。私…私、みっともないからここに連れてこられたんでしょ…!」 言っていることが支離滅裂だと、ナキア自身自覚していた。 興奮して肩を震わせているナキアを見やり、イナがぽかんと口をあける。 ナディンは、変わらず穏やかな目をして、首を左右に振った。 「どうしてナキアさんがそんなことをおっしゃるのかわかりません。ナキアさんはとても綺麗な目をしてらっしゃるのに…。昨日のうちに僕たちがちゃんとした自己紹介をしておかなかったことはお詫びしますけど…」 「からかわないで! 私が綺麗だっていうのなら、世界中の人が絶世の美男美女よ!」 他人に怒鳴りつけられるなど、この少年には初めての経験だったのではないだろうか。 どんな頑なな人間の心をもとろかしてしまいそうな愛らしい顔だちの少年に、ナキアは嫉妬を感じていたのかもしれない。 ナディンは、だが、怯む様子は見せなかった。春の微風のような口調で尋ねてくる。 「……もし仮にナキアさんの外見が――その…美しくなかったとして、でも、それはいけないことではないでしょう?」 これ以上ないほど神に愛され、あらゆる美点をその身にまとった少年の穏やかな問い掛けに、ナキアは声を詰まらせた。 横からイナが口を挟んでくる。 「その通りですわ! その通りですけど、でも、ナキアさんは綺麗よ。その金色の髪!エリドゥの都には様々な色の髪をした人間が集まってきてるけど、ナイド様のお髪【ぐし】より輝いてる髪なんて、私、初めて見たわ!」 「髪なんて! 私、この髪のせいで、村ではずっと気味悪がられてたんだからっ!」 「それは…」 ナディンが再び柔らかい微笑を目元に浮かべる。 「それは、ナキアさんの髪があんまり綺麗すぎるから、みんな恐がっていたんじゃないかしら。でも、だからって得意がっちゃいけないんですよ。人の美しさを決めるのは、心の豊かさだけなんですから。あのナイドだって、美しい心を持っているから、あんなに輝いて見えるんだもの」 美しさを誇るなとたしなめられるなど、ナキアには、それこそ生まれて初めての経験だった。そんな美しさの持ち合わせが本当に自分にあるのかという疑念と、ナディンは本気で忠告してくれているらしいという判断の間で、ナキアは戸惑った。だが、自分の美醜はともかく、心が人の美しさを決めるのだというナディンの意見は確かに真実なのかもしれない――とナキアは思ったのである。この可憐な少年をより美しく見せているのが彼の優しい表情だということは、疑うべくもない事実だった。 「昨日のうちに、僕たちのこと説明しておけば、ナキアさんを不安にさせずに済んだんでしょうね。ごめんなさい。今日はみんなちゃんと自己紹介しますね。そして、ナキアさんのこれからのことを考えましょう。みんな待ってますよ」 そう言って、ナディンがナキアの手を取る。 その手の柔らかさに驚いて、ナキアは彼の手を振り払った。レンガ作りのために荒れてがさついた自分の手とあまりに違うその感触が、ナキアの身をすくませた。 「あ…」 差しのべた手を振りほどかれた経験も、この少年にはなかったのだろう。ナディンは初めてナキアに笑顔以外の表情を見せた。 「いやだ、ナディン様。ナキアさんはまだ着替えも済ませてないんですよ」 「あ、ごめんなさい…。僕、外で待ってます」 「ナディン様をお待たせするなんてとんでもない! 私がお連れしますわ! 東側の露台でよろしいんですか?」 「ええ、そう。じゃ、お願いしていいかしら」 「はいっっ!!」 一瞬辺りに漂った気まずい雰囲気を、イナの明るい声が霧散させてくれた。ほっと安堵の息を洩らして、ナキアはイナと共に部屋の中へと逆戻りしたのである。 「ナディン様たちとお食事をご一緒できるなんて、あなた、ただ者じゃないのねっ!」 水差しの水を洗面器に移しながら、イナが感嘆したように言う。 ナキアはどう返事をしたものかと困惑した。 「ナディン様たちとご一緒するなら、身だしなみはちゃんとしなくっちゃ。外見の美醜にこだわるのは意味のないことだけど、だからってだらしない恰好をしていてもいいってことにはならないもの」 イナに急かされるままに、ナキアは顔を洗い、白い夜着を緑色の長衣に着替えることになった。初めて身に着ける長い衣装は、ナディンの指のように滑らかな感触でナキアの体を包み込んだ。 |