「あー、いたいた。こんなとこで落ち込んでら。言辞の講義の時間なのにナキアが来ないって、ウスルが捜してたぞ」
「アルディ…」
 仲間たちから隠れて外庭のいちばん奥の木の陰に座りこんでいたナキアは、アルディの元気な声に、かえって落ち込みがひどくなった。講義をさぼっている言い訳を言う気にもならない。アルディを無視してまた膝を抱えこんでしまったナキアの前に、太陽神の座のシュメールがまわりこんでくる。
「ほら、ナキア、行こうよ。ウスルを怒らせるとあとが恐いぜー。粘土板に『ごめんなさい。もうしません』って百回書いて提出しろーっ! とかさ」
 鼻の頭をこすりながら言うアルディを上目使いに見やって、ナキアは肩を落とした。
「だって、私……。私、悪いこときいちゃったのよね…?」
 悪気はなかったとはいえ、無思慮な言動でナイドを傷つけてしまったことに変わりはない。ナキア自身はただ、自分より惨めで辛い生活を送っていた者がこの神殿にはいるはずがないと思い込んでいただけだったのだが。どんな人間でも、つい一ヵ月前の自分より救いのない境遇にあった者などいるはずがない――と。
 しょぼくれているナキアに、アルディが梨の実を投げてよこす。彼らしい慰め方ではあった。
「俺もさ、よくは知らないんだけど、ナイドって捨て子だったらしいんだ。それでさぁ、ガキん頃は無茶苦茶苦労したらしいけど、でも、その、なんつーか、ナイドくらい頭抜けて綺麗だとさ、主客が逆転しちまうんだよな。金や宝石をせしめるのが仕事だなんてナイドは言ってたけど、そーゆーの受け取ってもらうために、客の方がナイドのご機嫌伺うみたいな、さ。実際、ナイドは楽器の演奏とか語学力とかハンパじゃないし、神殿付きの学者やウスルも敵わないくらいいろんなこと知ってるし、そうやって自分に箔つけてさ、人に貶められないように頑張ってきたの。そうなってくるとさ、金持ち連中も自分ちの宴席にナイドが出てくれれば、それだけで家格が上がるって風になって、ナイドはほとんど賓客扱いで、だから、つまり……」
「うん、わかる」
 つまり金のために自分自身を客に供することはなくなっていった、ということなのだろう。ナキアが頷くと、アルディは言いたくないことを口にせずに済んで安堵したように、肩から力を抜いた。
「けどさ、ナイドは、ナディンにだけは、それ知られたくないらしくてさー。ナディンってずーっと前に、まだ二人ともシュメールになってなかった頃に、どっかの神殿でナイドに会ったことあるんだって。そん時、ナイドのこと女神様だと思って、しばらくそう信じ込んでたんだって、俺に教えてくれたことあるんだ。ナイドはさ、ナディンのそういう心象を壊したくないんだと思うんだ。だからさ」
 アルディがその場にしゃがみこんで、ナキアの視線を水平に捉える。
「だから、ナディンには言わないでやっといてくれよな? あの気位の高いナイドのさ、たった一つの弱みなんだ。その…昔の仕事のことじゃなく、ナディンの目に綺麗な人間に映っていたいってことが」
「うん…」
 ナイドの気持ちはナキアにもわかる気がした。ナディンのあの明るく素直な瞳を曇らせるようなことは、ナキアとてしたくない。自分を優しく美しい人だと信じきっているナディンの気持ちを裏切ることは、皮肉屋のナイドにもできないというだけのことなのだ。
「俺なんか、んなことどうだっていいじゃんって思うけどな。大事なのは、今のナイドがどういう人間なのかってことだろ。綺麗で、口が悪くて、性格も悪くて、気まぐれで、甘ったれで、依怙贔屓が激しくて……」
 そこまで言って、アルディは口をつぐんだ。それから一言、
「…今の方が質【たち】わりーじゃん」
とぼやく。
 途端に、庭中に響いたのは、イルラとウスルの大爆笑だった。
 ナキアとアルディが振り返ると、そこには、必死になって笑いを噛み殺そうとしているイルラとウスル、そして、ふてくさった顔のナイドが立っていた。
「ま…まあ、何というか、アルディらしい意見だな。屈託がなくて大雑把で」
「正鵠を射ている。異論を挟む余地がない」
 イルラなど、目に涙を滲ませて、止められない笑いに苦悩している。
 そんな二人を冷えきった目で見やり、ナイドはくるりと踵を返した。
「笑うんなら、俺のいない所で笑え。ふん。心配して損した」
「あ…あの、ナイド…!」
 座り込んでいたナツメ椰子の根方から立ちあがり、ナキアはナイドの後を追おうとしたのだが、ウスルがそれを止めた。
「いい、いい。放っておけ、ナキア。どうせナディンのところに、俺とイルラに苛められたーとか何とか言って泣きつくだけだから」
「え? で…でもそれじゃ、ウスルたちがナディンに誤解されちゃうじゃない!」
「ああ、それも大丈夫。ナディンなら、さしずめ――」
 ウスルの言葉を継いだのはイルラだった。ナディンの口調を真似て、
「そんなのナイドの思い過ごしだよ。イルラもウスルもナイドの仲間だもの。みんなナイドを大好きだからね」
「あ、それ言いそー。そんで頭撫で撫でして、ナイドがごろにゃん」
 アルディまでがげらげら笑いだし、ナキアは――ナキアもつられて笑ってしまったのである。イルラとアルディの言う場景が容易に想像できてしまったせいだった。
「ナディンって、ナイドのお母さんみたいね」
「はは、全くだ。何でも許して甘やかす割りに、しっかりと子供に正しい道を指し示す。実によくできた母親だよ」
「うん…ほんとね…」
 本当にそうなのかもしれないと、ナキアは思った。
 イルラもウスルもアルディもナイドを理解し、彼への深い思いやりを持っている。それはナイドもわかっているのだろうが、それでも彼にとってナディンが特別なのは、理解とか善悪を越えたところで、ナディンがナイドを信じきり、彼のすべてを受け入れ許しているせいなのかもしれない。それは友情というよりは、母親が我が子に抱く無償の愛に酷似していて、もしかしたら、ナイドはそれをこそ求めているのかもしれない。自分より十歳も年下の小さな男の子に――。
(そういや、昔、私が母さんの言いつけ守らずに遠くに遊びに行って迷子になった時、私を見つけた母さん、怒りもしないで私を抱きしめて泣いてたっけなー…)
 ナイドは多分、そういう愛情を体験したことがないのである。彼は自分を理解してほしいのではなく、ただ愛してほしいだけなのだ。
 それがひどく悲しいことのような気がして、ナキアは胸が締めつけられた。






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