第七章  キシュ挙兵





 キシュ王ルーガル・シブが、エリドゥに対して兵を挙げた――。

 キシュの都から早馬を疾駆させてきたキシュ支庁からの早打ちの報告は、行政官にも官吏にも神官にも知らされず、密かに王とシュメールだけに伝えられた。普通に旅して三、四日の距離を一晩で駆けてきたという青年を東の居住区の一室に休ませると、国政を司る七人は朝の宣誓式を終えたばかりの神域にとって返した。
 そして、神域の青銅の扉を堅く閉ざした。
「なぜだ! キシュ王は半月前に我々の歌をいやというほど聞かされたばかりなんだぞ!しかも、多くの民に聞かせる汎渉な平和の祈りではなく、キシュ王一人に『戦いを厭え』と具体的に何曲も歌ってやったんだ。聖歌の有効期間の短いエリドゥの王以外の者なら、最低二年はおとなしくしているはずだっ!」
 ウスルは、彼の守護神であるエンリル神の像の足元に立ち、右の拳を左の手の平に打ちつけて、神聖な神域に怒声を響かせた。
イルラがそんなウスルをたしなめる。
「事が理屈通りに運ばないと苛立つのは、おまえの悪い癖だぞ、ウスル。それより、すぐ出発の準備にかかろう。幸いキシュの軍勢は他の都市に攻撃をしかけることなく、まっすぐこの都を目指しているそうだ。……ナディン、ナキアとアルディと陛下を頼む」
「はい…!」
 ナディンが平生の彼からは想像もつかないほど厳しい目をして、力強くイルラに頷き返す。
 その様子を見たバーニが、掛けていた椅子から腰をあげ、イルラの前に立った。
「いや、私も行こう。私はこの国の王で、諸都市の王を統べる王だ。我等が国土【キ・エン・ギ】の平和を守る義務がある」
「それはなりません。陛下は我等が国土を統べる王として最も大切な義務をまだ果しておりません。陛下に万一のことがあった時、この国は誰が統べるのですか」
「……つまり、私は、私の夏菫の御方を見つけだして後継者を儲けない限り、死は許されないということか」
「……」
 イルラはそれには何も答えなかった。傍らにいたナキアを慮ってのことだったろう。
 ナキアは胸の痛みをこらえつつ、イルラに尋ねた。
「イ…イルラ、しゅ…出発って、いったいどこに行くの!? まさか、キシュ王のところに行くっていうんじゃないでしょうね!? キシュ王は軍隊を引き連れてきてるんでしょ! エリドゥには兵士なんて一人もいないのよ!?」
「無論、我々だけで行く。ナキア、我々の武器は歌だ。なに、二万かそこいらの兵、シュメールが三人もいれば、充分抑えられるさ。戦いをしたがるのは大抵力を持った者だけで、それに従う者たちは戦いなど望んでいない者が大部分だろうしな」
「三人……たった三人で…」
 たった三人で二万の兵に対峙するというイルラの言葉に衝撃を受ける前に、ある記憶と想像が嵐神アダドの起こす稲妻のようにナキアに襲いかかってきた。
 シュメールの歌を聞いたばかりなのに兵を挙げたキシュ王。深夜キシュ王の部屋から退出してきたナイド。そして、ナディンを抱きしめるバーニに向けられたナイドの憎悪の眼差し――。
(ま…まさか、ね…)
 いくらナイドが尋常でない愛着をナディンに抱いているとはいえ、仮にも国土の平和を祈ることを使命とするシュメールが、兵を起こせと他国の王に歌うなど、あっていいことではない。ナディンをバーニから引き離したいのであれば、他の犠牲が出ないようにバーニ一人を取り除けばいい――。
(ナイドはもしかして、キシュ王にバーニを殺させようとしてるの…?)
 そんなことは考えたくないのに、ナキアの胸には次から次へと悪い想像ばかりが芽吹いてくる。ナディンを下卑た目で見たキシュ王に反逆の罪を、ナディンの心を占めているバーニに死を、ナイドは贈ろうとしているのではないか。だとしたら。だとしたら――。
「ナイドは行っちゃ駄目よっ!」
「ナイドが行っちゃ駄目だろ!」
 ナキアと同じ叫びを発したのはアルディだった。互いの言葉に驚いて、ナキアとアルディは顔を見合わせ、イルラとウスルは怪訝そうに二人を見た。
「『行っちゃ駄目』とはどういうことだ?」
 イルラに尋ねられて、ナキアは答えに窮した。まさか、『ナイドはキシュ軍に、エリドゥの王を殺せと歌うかもしれないから』とは答えられない。それはナキアの推量でしかないのだ。
 対して、アルディの訴えは全く別の次元から出たものだった。
「ナディンが側にいないナイドなんて、使いもんになんないよ、絶対。代わりにさ、俺を連れてってくれないかなー」
 山ほどのご馳走を前にした時よりも瞳を輝かせて、アルディが身を乗り出す。
 ウスルは呆れたような顔をして、アルディの頭を小突いた。
「物見遊山に行くんじゃないんだぞ、アルディ。それに……」
「それに、万一――万が一、私たちに何かあった時には、おまえたちには次代のシュメールを捜すという大切な仕事がある。こういう時にはな、おっさんが行くものなんだよ、アルディ。物事には順序というものがある」
 ウスルが小突いたアルディの頭を、イルラが撫でる。
 しかし、アルディはきかなかった。
「俺はナディンと違って、防御型じゃなく攻撃型なの!」
「ナイドはおまえの千倍も攻撃的な男だよ」
 アルディの言うことを取り合おうともしないイルラとウスルに、ナキアは焦った。ナイドを行かせてはならないという思いが、一層強くナキアを突き動かす。
「イ…イルラ! だから駄目よ。ナイドは攻撃的だから駄目なの! イルラたちは穏便に事を収めたいんでしょ。キシュ軍の侵攻を止めたいだけなんでしょ。ナイドはキシュ王を嫌ってるし、どんな歌を歌いだすかわからないわ! アルディが若すぎるから駄目っていうのなら、私が行く!」
「む……」
 イルラは、ナキアの主張に一理あると認めざるをえなかったらしい。自分に課せられる仕事の内容には無関心らしいナイドを横目でちらりと見やり、それから、彼はウスルと視線を交わした。
「しかし、いくら何でも女の子を連れていくわけにはいかないよ、ナキア」
 嘆息と共に、ウスルが左右に首を振る。
 困惑しきっている二人のシュメールに決定を下したのはバーニだった。ひどく蒼ざめた頬をして。
「イルラ。ナイドを残し、アルディを連れて行け。キシュ王のエリドゥ訪問以来、私はどうも精神が不安定になっているようだ。神殿に残る者の中に、シュメールの真の務めを知っているのがナディンだけでは心許ない。ナディンでは、神殿に残った他の仲間に伝えることすらできないかもしれない」
「陛下…!?」
 イルラとウスルは、キシュ王の挙兵を知らされた時よりもはるかに険しい表情になった。
(シュメールの真の務め…?)
 それは、我等が国土の平和と民の幸福を願って歌うことではないのだろうか。ナキアは、それまでずっと顔を合わすのを恐れていたバーニに、初めて視線を転じた。
 そして、ナキアは、彼がずっと自分を見詰めていたらしいことを知ったのである。
 だが、彼はナキアと目が合うと、すっと横を向いてしまった。
「イルラ、ウスル。アルディを護ってやってくれ」
「かしこまりました。では、すぐに出発いたします」
 さすがに王の指示に口を挟むことはできなかったらしく、イルラはそう言ってバーニに一礼した。
「やたっ!」
 小踊りするアルディの横を擦り抜けて、イルラがナイドとナディンの側に歩み寄る。彼は小声で、二人に囁いた。
「我々は三日もあれば戻る。その間、朝の宣誓式は執り行わず、陛下への聖歌はおまえたち二人だけでお聞かせするようにしろ。ナキアには歌わせない方がいい。ナキアの迷いが彼女の歌に乗っているのかもしれない」
 洩れ聞いたナキアが『そんなことはない』と反駁する前に、イルラたち三人は神域を出ていく。万一のことがあれば、生きて再び会うことは叶わないかもしれないというのに、別れの言葉も涙もなかった。






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