密談用の小部屋を出ると、そこはいつも朝の宣誓式を行っている神域の広間だった。正面にエンキ神像と王の玉座、行政官たちのための糸杉製の長方形の卓、壁際にアン、エンリル、ナンナル、ウトゥ、イナンナ、ニンフルサグの像が等間隔に並ぶ。
 その中の一つ、ニンフルサグ神像の足元で、これまで毎日仲間たちと聖歌を歌ってきた。
 その歌で、王に、行政官たちに、私欲を捨て憎しみを捨て善政を敷くことを強要してきた。それこそが――国土に平和を、人々に安らぎを与え、善き道を示すことがシュメールの唯一の務めだと信じて。民や仲間たちを見捨て、その死を踏み越えることもまたシュメールの務めなのだろうか。
(…これがバーニの言ってた、シュメールの真の務めなの?)
 ナキアは、ナキアの身長ほどの高さの台座の上に立つエンキ神像の足に手を伸ばした。冷たい石像の足に少しずつナキアの体温が伝わっていく。
 違う――と、ふいにナキアは思った。バーニは、シュメールの真の務めを仲間に伝えることさえナディンにはできないかもしれないと言った。『民を見捨て新しい仲間を捜せ』というのは確かに楽しい話ではないが、伝えることができない話ではないし、たとえ伝えられなかったとしても少し考えてみれば当然行き着く結論である。
(他にあるんだ…もっと辛いシュメールの務めが……)
 それを聞いておかなければならない。ナキアが先程の小部屋に戻りかけた時、ナイドとナディンがその小部屋の扉を開け、広間に出てきた。
「ナディン」
 エンキ神像の台座の陰にいたナキアに、ナイドは気づかなかったらしい。小部屋の扉を閉じようとしていたナディンの背中に、彼は低い声で告げた。
「万一の話ばかりで悪いが……万一、俺たちもキシュ軍に向かうことになったら――もし俺たちがキシュの王に捕らえられるようなことになったら、俺はおまえを殺すぞ。あの下卑野郎が命を永らえさせてやろうと言っても」
 多分、その言葉に衝撃を受けたのは、ナディンよりもナキアの方だったろう。ナディンは微笑さえ浮かべて、ナイドに頷き返した。
「うん、いいよ。僕、ナキアさんとアルディを信じてるもの。僕たちが死んでしまっても、ナキアさんたちはきっと次代のシュメールを捜しだして、もう一度国土に平和を取り戻してくれる。へたに人質なんかにされたりして、ナキアさんたちの重荷にはなりたくない」
「ん…」
 ナディンを見詰めるナイドの切なげな横顔に、ナキアは胸を突かれる思いだった。
 ナディンを殺すということは、ナイドも死ぬということである。シュメールは一人では生きられないのだから。
 そこまでの覚悟をしているナイドが、キシュ王に造反を促したりするはずがない。それまでどうしてもナイドへの疑惑を消しきれずにいた自分自身を、ナキアは恥じた。あまつさえ自分は、アルディを説き伏せてバーニと共に神の手から逃れようなどという姑息な考えを抱きさえしていたのだ。
 二人が神域から出ていくと、神以外誰もいなくなった聖なる場所で、ナキアは大きく息を吐いた。イルラもウスルもアルディも、そしてナイドもナディンも、国土の平和を守るために命をかけようとしている今この時、恋に悩まされ迷っている自分自身を、ナキアは厳しく叱りつけた。






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