王の居室は、廊下に面した扉は一つきりの、続き部屋が五・六部屋ある造りになっている。入ってすぐの部屋は最も広いが、東側にしか窓がない。太陽は南寄りになっており、陽光は部屋の三分の一くらいにしか注がれていなかった。 四方世界の王の居室にしては飾り気がない。 エリドゥの歴代の王たちは、この都に集まってくる金や宝石で身の周りを飾りたてることに興味を持ったことがないらしかった。ただ、さすがにレンガの壁を覆う幕や窓掛けの布、床に敷かれた絨毯は上等のもので、それは目を見張るほど深い青――バーニの瞳と同じ色をしていた。あるいはそれは、強い陽光が作る濃い影の作用によって、そう見えたのだったかもしれない。紺青の窓掛けや絨毯は、闇の色に酷似していた。 いずれにしても、その部屋にナディンはいなかった。バーニの姿もない。 代わりに続き部屋のどこかから、声が洩れ聞こえてきた。 最初ナキアはその声を泣き声だと思った。だがすぐにそれは笑い声――それも、発狂した老婆が喉の奥から搾り出すような笑い声――だと気づく。その奇妙な笑い声があのバーニのものだということを、ナキアはしばらく認識できずにいた。 「おまえのせいだ、何もかも。神の意思に背いておまえが生まれてきたせいだ。自分がすべての元凶だと、本当はおまえも気づいているんだろ? え? ナディン」 それは、ナキアの知っているバーニの声でも言葉でもなかった。 「おまえがいちばん気に入らない。穢れも人の悪意も知らないようなその顔がな。おまけに、あんな男娼あがりの男に馴れついて、やはり下賤の身は下賤ということか!」 罵声は右側の続き部屋から聞こえてきた。ナイドが、やり場のない怒りを叩きつけるように、仕切り幕を引きおろす。繊細な刺繍を施された厚い布は、女の悲鳴のような音をたてて引き裂かれた。 そこはバーニの寝室だった。が、寝台の上には誰もいない。寝台の下にバーニがいた。 血走った目をしてナディンの上にのしかかり、彼はナディンの細い首を両手で締めあげていた。 目の前に突然現れた信じ難い光景に、ナキアは全身の血が凍りついてしまったのである。 首を締めているのは、聖歌を歌わせないためなのだろうか。それとも、彼は本気でナディンを殺そうとしているのだろうか。 苦しそうに顔を歪めているナディンは、しかし、自分の喉に食い込んでいるバーニの手を引きはがそうともしていなかった。 「ナディン!!」 ほとんど体当たりするような勢いで、ナイドはバーニの体を突き飛ばした。手にしていた剣を使わないのがいっそ不思議なくらいに恐ろしい剣幕で、壁に叩きつけられたバーニを睨みつける。 だが、それも一瞬のことで、すぐに彼は紺青色の絨毯の上にぐったりと倒れているナディンの方に向き直った。床に片膝をつき、脇に剣を置くと、壊れ物を扱うように、そっとその肩を抱き起こす。 「ナディン……ナディン…?」 囁くような声でその名を呼んだのは、もしかしたら既にこと切れているのかもしれないという不安のためだったのだろう。軽く咳込んだかと思うと、うっすらと目を開けたナディンを見て、ナイドは瞳を輝かせた。 「ナディン!」 ナイドの声が、見失っていた母親を見いだした迷子のように、安堵と喜びの入り混じったそれに変わる。彼は深く吐息すると、ナディンを抱きあげて静かに寝台に横にした。 「しばらく目を閉じておいで。もう大丈夫だから」 それは、これまでナキアが聞いたことのあるナイドの声の中で最も優しい響きを有していた。 聖歌よりも優しい響きでナディンを気遣ったナイドが、壁際に倒れこんでいるバーニに視線を転じた時、彼の瞳には憎悪の色しか宿っていなかった。 腰をかがめて、床に置いた長剣をとる。微かに――本当に微かに――唇の端を歪めて、彼はバーニの側に歩み寄っていった。 彼が何をしようとしているのかは、火を見るより明らかだった。室内にカチリと金属音が響く。切りかかるためではなく突き刺すために持ち換えられた剣の柄が、ナイドの指輪にぶつかって発した音だった。 それがわかっても、ナキアは戸口の前から動けずにいたのである。今、壁にもたれてへたりこみ呻いている黒髪の男が、ナキアにはどうしてもバーニだと思えなかった。栄光に包まれた妹への嫉妬に狂い、愛の女神イナンナを苦しめた冥府の女王エレシュキガルのような目をしてナディンの首を締め、卑しめ、ナイドを侮辱していたその人が、あの優しい紺青の瞳のバーニだとは、ナキアには到底信じられなかったのである。 ナキアの知っているバーニは、いつも優しかった。声を荒らげることもなく、穏やかな物言いと静かな物腰を持った青年だった。これで王など勤まるのだろうかと不安になるほど寛容で、いつも周囲の人間に暖かい眼差しを向け、シュメールたちと共にいる時は座の中心になるどころか、最も控えめな存在ですらあった。それでも、六人のシュメールを見守り包み込むような微笑の心地良さが、そこに王のいることをシュメールたちに感じさせてくれる――ナキアの知っているバーニは、ナキアの好きになったバーニは、そういう青年だったのだ。 (それなのに…!) ナイドは一言も口をきかず、剣の切っ先をバーニの心臓の上に定めた。恐ろしいほどの憎しみがナイドを支配しているのが、ナキアには見てとれた。 ナディンは目を閉じて寝台に横になったまま、ナイドの燃えるような憎しみには気づいていない。気づかせぬためにナイドは無言なのだと、ナキアにはわかった。 (この人はバーニじゃない。バーニがあんなこと言うはずがない…!) ナイドの腕が上に上がり、剣とバーニの心臓との距離がひらく。それが、バーニを傷つけることをやめたからではなく、より力を込めて彼の心臓を突き刺すための動作なのだということも、ナキアにはわかっていた。 ナイドは本気でバーニを殺そうとしている。相手は、彼の大切なナディンを苦しめた男なのだから、ナイドにしてみれば死は当然の報いなのだろう。ナキアは、ナイドの殺意を知ってもまだ動けずにいた。どうしても、自分の目の前にいる男が自分の好きになったバーニだと思うことができない。助けたいのに、彼の命を守りたいのに、どうしても――。 その時、だった。 真昼の陽光を遮っていた雲が太陽を隠すのをやめ、露台から射し込んできた眩いばかりの光が、バーニの頬と瞳を照らしだした。 その表情は、もしかしたら、自分に剣を向ける男への憎悪をたぎらせたものだったのかもしれない。しかし、その瞳は――ナキアが初めて出会った時、泣きたくなるほど優しかったあの紺青の瞳だったのだ。 ナイドが剣の柄を握る指に力をこめる。 そして剣は振りおろされた。 「やめて――っ!!」 なぜナイドの剣よりも速く自分がバーニに触れることができたのか、ナキアにはわからなかった。ナイドにも、おそらく合点のいかないことだったろう。 しかし、確かに、ナイドの剣は、バーニの心臓ではなく、彼を庇うために自分の体を投げだしたナキアの背中に突き刺さった。 (ナディン…!) 刺された痛みは、むしろ火傷のそれに似ていた。痛いと感じるより熱いと感じた。床にうつ伏せに倒れ込み、ナキアは右の腕を寝台の上のナディンに向かって伸ばした。 「ナディン、お願い、ナイドを止めて…!」 「ナキアさん…!?」 死んだように横になっていたナディンが、仲間の声に弾かれるように体を起こす。 血に染まっているナキアと血に濡れた剣を手にして立っているナイドの姿に驚いて、ナディンが瞳を見開くのが、ナキアには見てとれた。 (よかった……。ナディンがナイドを止めてくれる。ナディンに止められたら、ナイドはもう何もできないわ…) 安心した途端に、ナキアの意識はふっと途切れた。 ナディンの歌が聞こえたような気がした。 |