「おまえの言ってたお城ってのは、ここのことか?」 息を切らして彼に追いついてきたナディンが頷きかけた時、 「ナディン様!」 二騎の馬が、ナディンとナイドの側に駆けてきたのである。それは、ナディンの母の死に立ち会った二人のシュメールだった。 「どちらへおいでだったんです! 陛下が心配なさっておいでです!」 馬から飛び降りたシュメールに、ナディンは一瞬戸惑いの色を見せた。おそらくその一瞬に、城を抜けだした本当の理由を言ってはいけないと判断したのだろう。ナディンはどもりながら、二人のシュメールに頭を下げて謝罪した。 「ご…ごめんなさい。お…お庭にいた白い小鳥が町の方に飛んでいっちゃったのを追いかけてたら迷子になっちゃったの…。でも、女神様が連れてきてくださ…あ、違う…」 自分をここまで連れてきてくれた女神が実は人間でしかも男性だということを、ナディンはまだ得心できていなかったらしい。慌てて言い直すナディンを、ナイドの視界から隠すように、シュメールの一人がナイドの前に立ちふさがった。彼に目配せをされたもう一人が、ナディンを馬のいる方に連れていく。 「ナディン様をお連れくださったんですね。ありがとうございま……」 礼を言いながらナイドの風体を足元から値踏みしているようだったシュメールの視線が、ナイドの顔に辿りつく。そして彼は言葉を途切らせた。 「これは…」 さすがのシュメールが絶句するほどの美貌を、ナイドは事もなげに歪めてみせた。 「へェ、あんたらが噂のシュメールか。シュメール直々のお迎えとは、あのガキ、いったい何者だ?」 ナイドの美貌に驚きはしても、シュメールはそれで口を滑らせるようなことはしなかった。ナディンのいる位置を確かめ、ナディンに聞こえないほどの小声でナイドに告げる。 「すまないが、ナディン様のこと、決して他言しないでくれないか」 「べそべそ泣いているガキをわざわざ送ってきてやったのに、礼の言葉がそれか」 「申し訳ないが事情は話せない。これは、我等が国土【キ・エン・ギ】の存亡に関わる重大事なんだ」 「……」 教えろと詰め寄って口を割る相手かどうかの見極めはすぐついた。ナイドが、どうやってこの男の口を滑らせてやろうかと考えを巡らせ始めた時、 「見つかったのか」 ナディンともう一人のシュメールのいる場所に馬を横づけた青年がいた。 下乗もせず、高いところから冷やかな目でナディンを見おろしている。ナディンが息を飲み、やがて俯くのを見ると、彼はさっさと馬を反転させ、神殿の方に戻っていってしまった。 その後ろ姿を見送るナディンの肩があまりに悄然としているので、ナイドにはわかったのである。たった今ナディンを冷たく一瞥しただけで去っていった男が、『僕のこと、お好きかしら』とナディンを悩ませている"お兄様"その人なのだと。 だとしたら、彼は到底"お優しいお兄様"ではない。いくら子供でも――否、子供だからこそ、そんなことは一目見ただけでわかりそうなものではないか。 ナイドの目に、ナディンは、多少世間知らずなところはあるにしても、決して馬鹿ではなく、むしろ感受性の豊かな子供に見えた。少なくとも判断力の欠如した子供には見えなかった。それなのに――。 子供の気持ちが理解できず、理解できないことで不愉快になってしまったナイドの側に、兄の冷たい視線の名残りを振り払うようにナディンが駆けてくる。そして、彼はナイドにぴょこんと頭を下げた。 「僕、とっても大事なお約束だったのに、お母様との約束を忘れるところでした。思いださせてくださってありがとうございます」 そう言ってから、ナディンは少し気弱げにナイドの顔を見詰めた。 「あの…僕……。僕、また女神様に会いに行ってもいいかしら。東の居住区に住んでいらっしゃるんでしょう?」 ナディンはまだ、ナイドをシュメールの一人だと思いこんでいるようだった。まさか、エリドゥの都で最も値の張る男娼だと本当のことを言うこともできず、ナイドは口元を引きつらせ、すがるような目をした子供を無言で見おろしたのである。 東の居住区を訪ねても会うことはできないのだと、本当のことを告げるのが親切というものだ――と、ナイドの理性は囁く。だが、そんなことをしたら、せっかく母との約束を思いだして希望を持ちかけている子供が、また死んだ母の手を切望するようになってしまうだろう――と、理性でないものがナイドを引き止めるのだ。 「さ、ナディン様、戻りましょう」 「……はい…」 ナイドの快い返事をもらえず肩を落としてしまったナディンが、シュメールに促されて項垂れるように頷く。 哀しげなナディンの力のない背中に、ナイドはぎりっと奥歯を噛みしめた。 シュメールなどという立派な肩書きでなくても、せめて代筆屋とか学生とか当たり障りのない立場にあったなら、すぐさまそのことをナディンに告げ、『おまえにもう一度会うにはどうすればいいんだ?』と尋ねることもできるのに――。そんなことを考えている自分を訝る余裕さえ持てないほどに、ナイドはナディンとの別れに心臓に刃物を突き立てられるような痛みを感じていた。 「君…」 先程ナイドに口止めをしたシュメールが、そんなナイドを見やり、声をかけてくる。 「もしどうしてもナディン様のことを知りたいのなら、三日後の月例祭に来たまえ。今度の月例祭は月神ナンナルの座のシュメールの招喚式だ。君がもしナディン様のことを知る運命にあるのであれば、君はシュメールの一員に選ばれるだろう。もしかしたら君は、ナディン様をお護りするために神がお遣わしになった者なのかもしれない」 「月例祭? そんなもの、行ったこともないな。俺の神はイナンナだけだ。そんなことより――」 自分の職業を暗に告げ、ナイドはそのシュメールを引き止めた。 「さっきの馬に乗ってた野郎が、あのガキの"お優しいお兄様"なのか!? とてもそうは見えなかったぞ!」 ナイドの詰問に、シュメールは答えなかった。答えないまま、もう一人のシュメールに手を取られ、ナイドを振り返り振り返りしながら神殿に向かうナディンの後を追う。 「アララトの山の氷より冷たい目をしていたぞ。とてもあのガキの兄には見えない……」 風と土埃だけが残る広場で、数百段はあろうかという階段をよろけながら登っていくナディンを見詰めながら、ナイドはまるで呻くように低く呟いた。 (そうだったのね。ナイドはナディンが心配で、だから招喚式に行ったのね…。シュメールになるためじゃなく、ナディンに会うために、ナイドは……) ナイドとナディンのこの出会いも、もしかしたら神の仕組んだことだったのだろうか。何もかもが神の思惑通りだったのだろうか。 だとしたら、人間が己れの意思を持って生きることの意義はどこにあるのだろう。人が神を信じることと、自分の意思を持って生きること――それは決して両立できないものなのだろうか。人は神にすべてを支配されているのだろうか。 それが人の生の真実なのだとしたら――神ならぬ身には判断しきれない命題に苦悩しながら、ナキアは、心のどこかで、それでもいい、と考えていた。 すべての人間が神の思惑通りに生きているのなら、ナディンに対するバーニの酷い仕打ちも神に帰することができる。ナイドを招喚式に招くために、ナイドをナディンに出会わせるために、神はバーニの心に邪悪を吹き込んだ――ナキアはそう思ってしまいたかったのだ。たとえそうだったとしても、バーニの残酷な行為がナディンに残した深い傷が癒されるはずがないことはわかっていたのだが。 |