第九章  弱く哀しい心





 ナキアは泣きながら、長い夢から覚めた。
 ナディンの気持ち、ナイドの心、彼等を見守るシュメールたちの思い。それらすべてがナキアの胸の中に流れこんできて、夢から覚めてもナキアの涙は止まらなかった。
 ただ、バーニの心だけがどこか遠くへ行ってしまったような、そんな気がした。
「イルラ! ウスル! ナキアが目を覚ましたっ!」
 最初に耳に飛びこんできたのは、アルディの弾んだ声だった。
「ナキア!」
「ナキア、よかった!」
「ナキアさん!」
 アルディの大声を聞きつけて、イルラとウスルがナキアの枕元に駆け寄ってくる。どうやら彼等はずっとナキアの寝室の続き部屋に詰めていたらしい。イナまでがそこにいた。
 しかし、ナディンとナイドの姿はない。
「…夢を見ていたようだね…」
 そう言ったのはバーニだった。夢の中の彼とは別人のように優しく気遣わしげな眼差しをナキアに向けて。
「同じ夢を…私たちも見ていたよ」
 この哀しげな瞳の持ち主が夢の中のあの冷酷な王子と同一人物だとは、ナキアにはとても思えなかった。その口調は苦さを噛みしめているようで、ナキアの目頭を熱くした。
「みな、私が悪いのだ」
「……」
 ナキアは言うべき言葉を見つけられなかった。世界中の苦しみと悲しみを背負った人間のように苦渋を浮かべて、今ナキアの前にいるバーニは、幼いナディンに暴力を振るい、今また弟を殺そうとした男なのだ。
 それは悔いて許されることだろうか。
 ナキアは許してやりたかった。ナイドが、ナディンが、神が許さないと言っても、自分だけはバーニの味方でいたいと、ナキアは思った。
 しかし、そう思う心の反対側で、『この人は私の仲間を苦しめ傷つけた冷酷な人だ』とバーニを告発する声がする。
 ナキアはさりげなくバーニから視線を逸らした。
「ナイドとナディンは…?」
 ナキアが視線を向けた先には、朝の空気があった。重なり合うような紫がかった雲と薄紅色の雲が、窓の向こうに見える。
 ナキアに目を逸らされたことに、バーニは落胆を覚えたようだった。だが、すぐに寂しげな微笑を目元に刻む。
「君にずっと付いていたんだが……君の具合いが持ち直した頃に、ちょうどイルラたちが戻ってきてね。それで気が緩んだのか、今度はナディンの方が倒れてしまったんだ。ナイドはナディンの方に付いてるよ。――ナイドは…咄嗟に力を抜いたようで、剣はさほど深く突き刺さりはしなかったし、失血もさほどではなかったんだが、強い衝撃のせいか、ひどい発熱で……君は五日間も眠り続けていた」
「あれは…ナディンが見せた夢だったの?」
 ナキアは、バーニではなくイルラに尋ねた。バーニにきくのは残酷な気がした。
「さあ…。我々にもわからない」
 イルラが沈んだ口調で答え、ウスルもまた目を伏せる。アルディが遠慮するように、だがしきりに横目でバーニを気にしていた。
 その場にいる者の中では、イナだけが夢と関わりのないところにいたらしい。シュメールたちの会話の意味がわからず首をかしげているイナに、イルラが声をかける。その声で、彼があまり眠っていないのがわかった。
「ありがとう、イナ。おかげで助かったよ。また何かあったら頼んでしまうかもしれないが、それまで休んでいてくれ。この件は内密にね。国土の民はたおやかな少女のシュメールを期待しているんだ。剣を振るっていて怪我をしたなどとは、外聞が悪くて人には話せない」
「はい」
 そういうことに、しているらしい。イナは、ナキアの容態を心配する気持ちとシュメールの側近くにいられる喜びとが相半ばしているような声で返事をし、室内の五人に深々と頭を下げて、部屋を辞していった。
「キシュ軍は?」
 イナの姿が扉の向こうに消えると、ナキアは早速寝台の上に体を起こした。
 背中の傷にはまだじんじんする痛みが残り、そこだけ肌が引きつっているような違和感がある。しかし、だからこそ意識ははっきりしていた。背中から胸へと大仰に巻かれた包帯の上に夜着を着けただけの姿で体を起こしたナキアにイルラとウスルは面食らったようだったが、アルディは気にもしなかった。
「キシュの都に回れ右してもらったよ。キシュ王だけ連れ帰ってきたんだ。あんまりあっさり収まっちゃってさあ、いったいなんであんな大それた真似やらかしたんだか、不思議なくらいだったぜ。シュメールの歌を打ち消す方法でも編みだしたのかなんて考えて戦々恐々してたのに、もう期待外れもいいとこ。普段の遠乗りと変わんないんだもん、つまんなかったー」
「つまらないだなんて。居残り組はみんな心配してたのよ。よかった。無事に帰ってこられて」
「ご…ごめん、ナキア…」
 軽口を叩きすぎたと反省したのか、アルディが急にしおらしくなる。
「お疲れさま」
 微笑んでアルディをねぎらい、それからナキアは、イルラとウスル、そしてバーニに視線を巡らせた。
 触れずに済むのなら、触れないままでいたい。だが、このまま何事もなかったかのようにシュメールとしての日々を続けていくことは、ナキアにはできそうになかった。信じることも尊敬することもできない王のために、歌を歌い続けることなどできようか。
 ナキアは意を決してバーニに向き合い、そして尋ねた。
「あの夢は本当のこと?」
 ナキアは、バーニの弁解を聞きたかったのかもしれない。だが、バーニはナキアの期待に沿ってはくれなかった。
「そうだ」
 それを、潔いというのだろうか。いっそ気が抜けるほどあっさりと、バーニはナキアに首肯した。
「本当にバーニがあんなひどいことをしたの」
「そうだ」
「どうして!?」
 なじるように問われ、バーニが僅かに眉根を寄せる。傷ついた草食動物のような瞳が、ナディンのそれに似ている――とナキアは思った。
「わからない…。まるで私の中にもう一人の私がいるようだった。あの子の素直さ、可愛らしさ、優しさ、健気さ――あの子の何もかもが私を苛立たせた。あの子は神に背いて存在するもののはずなのに、私の知っている誰よりも美しく強い人間に見えて、あの子の側で自分の醜さや弱さを思い知らされるたびに、私はいても立ってもいられない思いに捉われた。あの子がもっと醜くひねくれた子供だったなら、私はただ蔑むだけで済ませられたのかもしれない」
「……」
 それはつまり、ナディンがどういう人間だったとしても、バーニには彼を愛することはできなかった――ということなのだろうか。何の罪もない子供を――もしかしたら、罪がない故に? 
 それでもバーニを『大好き』と言いきったナディンの強さは、今のナキアには持ちえないものだった。自分が傷つけられたのならまだしも、バーニはあのナディンを傷つけ悲しませたのだ。
「私の好きになったバーニは嘘だったの? シュメールの歌で作られた幻だったの?」
 零れ落ちる涙を隠すために、ナキアは顔を俯かせた。
 血を吐くようなナキアの詰問に、バーニは正面から答えようとはしなかった。答えることができなかったのだろう。
「こんな私を許してくれるのは、神の定められた后――夏菫の御方だけなのだろうと思う」
『君には許せないだろう』と暗に告げる声が聞こえてくる。確かにその言葉通り、ナキアにはその声を否定することはできなかった。
 たとえそれがシュメールを相手にしてのことでも、否、相手がシュメールだからこそ、バーニは自分が許されるはずがないと思っていたらしい。ナキアの無言の答えに、彼は寂しげにではあったが、微笑すら浮かべた。
「私はただ、君に礼を言いたかったんだ。君の仲間に危害を加えていた私を、それでも庇ってくれたことに。…ありがとう、ナキア。すまなかった」
 なぜ彼を庇ったのか、庇ったナキア自身にもわからないのである。礼を言われても、答えようがなかった。
 うんともすんとも応えずに唇を堅く閉じているナキアを絶望したように見詰め、バーニはそのままナキアの部屋から出ていってしまった。
「陛下!」
 イルラが慌ててその後を追っていく。
 ナキアの寝台の足元にいたアルディが、僅かに責めるようにナキアにぼやいた。
「ナキアー、あれはちょっとかわいそうだよ。今の陛下はあの夢の中の陛下とは全然違うし、それに陛下はナキアのこと好きなんだぜ。ナキアにあんな態度とられたら傷つくよ」
「…バーニがナディンの首を締めてたのは、ついこの間のことよ。それに…今あんな哀しそうな目をしてる陛下は、作り物なんだわ」
 それを言われると、いくら些事を気にしない性格のアルディにも返す言葉がない。
 アルディ自身にもよくわからなかったのである。我等が国土【キ・エン・ギ】の中で最も強大な権力を持つエリドゥの王が悪心を抱くことが許されないのはわかる。だから、王には毎日シュメールの歌を捧げなければならない――否、聞かせなければならないのだということも、アルディは承知していた。エリドゥの王は、他の人間よりもずっと聖歌が作用を及ぼす時間が短いのだということも、また、他の人間よりも強く聖歌に支配されるということも、イルラたちから聞いていた。だが、歌の効力が薄れた途端に、実の弟の首を締めるなど、平生の王からは想像もできないことである。当のバーニ本人から事の次第を説明されても、アルディにはにわかには信じ難かった。
 歌の効力が切れたからといって、人はそこまで豹変するものだろうか。人は、自分の内に、そこまで明確に善と悪とを分離させて抱えているものだろうか。
 そこのところがどうしても、アルディには納得できなかったのだ。
「我々の歌は――狂人には効かないということを知っているかい、ナキア? 我々にできるのは、歌を聞いた相手の中にある善の意識や優しさを絶えず目覚めさせておくことで、その人間の中に善の観念がないと、我々の歌は無効なんだ。人の心の中にある邪悪は消せるものではない。大事なのは、その人が今どういう行為をしているかだ。陛下は慈悲深く英邁な王として、民に慕われている」
 ウスルは、シュメールが尊敬できない王を戴くという事態を避けたいらしい。事実、ナイドはともかくイルラとウスルは、王になる以前のバーニの行状を知っていて、その上で彼のシュメールとしてこれまで務めてきたのだ。過去の過ちを許せない自分の方が狭量なのかと、ナキアは当惑を覚えないでもなかった。
「…でも、バーニはナディンを殺そ…ナディンの首を締めてたのよ。ひどい言葉を投げつけて、ナイドのことまで侮辱して……」
 唇を震わせながらナキアが告げた言葉に、ウスルの眉が曇る。
「…それがおかしいんだ。その時、陛下はシュメールの歌の影響下にあったはずだ」
「……」
 言われてナキアは言葉に詰まった。確かにウスルの言う通りである。
 ふと、嫌な考えがナキアの脳裏を掠めた。
(私の歌のせい…?)
 キシュ王が帰国の途についた頃から、バーニの様子はおかしかった。それが、王であることをやめてほしいという自分の思いが聖歌に紛れこんでしまったためだったとしたら、バーニがナディンに危害を加えることになった原因は自分の歌にあるのではないか――そう考えて、ナキアはさっと青ざめた。王となる以前のことはともかくも、ナキアがシュメールの一員となるまで、バーニは慈悲に満ちた英明な王として国と民を統治していたのである。それを――。
「いや…ま、とにかく、大事に至らなくてよかった。すぐ食事を運ばせよう。体力さえ戻れば、すぐ元通り元気になる」
 ナキアの不安に気づいたのか、ウスルが茶を濁すようにそう言って、ナキアの部屋を出ていく。
「あ、ウスルーッ! 食いモンのことなら、俺が担当だよぉ!」
 自らの領域を侵されてはならじと、アルディがその後を追い、自室に一人残されたナキアもまた、すぐに寝台から降りた。少し目眩いがしたが、それどころではない。エリドゥの王に即位してから三年、ずっと慈悲深い王であり続けたバーニが突然狂ってしまったのが自分の歌のせいなのかもしれないと考えると、ナキアはいても立ってもいられなかった。
 あの出来事が起こってしまった訳を、バーニか、あるいはナディンに確認しなければならない。そして、それが本当に自分のせいなのなら、二人に謝らなければならない。そうナキアは思ったのである。
 部屋を出ると、外庭に面した回廊は陽の光に満ちていて、その眩しさにナキアは目が眩む思いを味わった。この数日間、バーニの心の闇が作りだす悲しみを見せられ続けていたのだから、それも当然のことだったろう。眩しすぎて目が痛いとナキアは思ったが、本当に痛んでいるのは心の方だったかもしれない。
 が、ナキアが数日振りに目にした陽光の中には、もっとずっと彼女の心を痛める光景が待っていたのである。






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