第十章  二つの心





「まー、とにかく、ナディンが元気になってよかった! ナディンが寝込んでると、ナイドの独占状態になってさぁ、俺なんか騒がしいから駄目っつって部屋に入れてももらえなかったんだぜー? あのおっさんは、自分だけが心配してるみたいな顔してるし、もーあったまきてさぁ」
 それから数日後、やっと寝室から出てきたナディンを見て、アルディは、ナイドへの不満を嬉しそうにぶちあげてきた。
 中庭のいつもの石卓には、午後の強い陽射しを遮って、背の高い木々が涼しい木陰を作っている。キシュ軍に向かっていた間に起こった出来事は聞いているのだろうが、以前と変わらず屈託のないアルディの態度は、それだけでナディンを力づけてくれるものだった。
「僕のは、アルディたちが無事に帰ってきてくれて、急に気が緩んだだけのことだったから…。でも、起きあがれるようになるのがナキアさんより遅れるなんて、ちょっと鍛え方が足りなかったみたい」
「私、体だけは丈夫にできてるから。お医者様もびっくりしてた。いくらシュメールが神の加護を得てるからって、こんなに早く治るなんて奇跡としか言いようがないって」
 ナディンの回復で、日常が戻ってきた。朝の宣誓式、六人揃っての食事と団欒、ウスルの歴史や言辞の講義は修了して、年長組は裁判記録やら税の報告書からの検分に時間をとられ、年少組は聖歌の修得にかこつけた自由時間。
 あの哀しい夢のせいで、おそらく一生叶わないのだろうバーニへの思いも、ナキアの中では整理がつきかけていた。恋人としてバーニの側に寄り添うことはできなくても、過去の罪と王としての責任の重さに苦しんでいるバーニをシュメールとして支えていくことはできる。もし、バーニの前に夏菫の御方が現れたとしても、シュメールとして彼を支えているのだという自信が、自分を強くしてくれるに違いない――ナキアは、そう思えるようになっていた。
「ほら。傷痕も小さくなっちゃったでしょ。もう親指の爪くらいの痣しか残っていないのよ」
 短衣の襟口を胸まで引き下げて背中をあらわにしてみせるナキアに、ナディンが目を丸くして絶句する。驚きが大きすぎてナキアのなめらかな背中から目を逸らすこともできないでいるナディンを気の毒そうに見やり、アルディが呆れたように言った。
「ナキアー。おまえ、一応女なんだからさぁ、もう少し恥じらいとかってものを持ち合わせろよ」
「しっ…失礼ねっ! 持ってるわよ、それくらい!」
 持ち合わせの量はあまり多くはなかったのだが、きっぱり断言して、ナキアはそそくさと短衣の襟口を引きあげた。
 ナキアの断言を疑わしく思っているのが見え見えのアルディの視線から逃れるように、ナキアは横を向いた。その視界に、ふいにナイドの姿が飛びこんでくる。
「あれ、ナイドじゃない? どうしたのかな、イルラたちと文書庫で粘土板とにらめっこしてるはずなのに」
 ナイドを飲みこんでしまった神域の扉をしばらく眺めていると、同じ扉の中に、今度はバーニが入っていく。
 途端に、中庭にいたシュメールは、三人が三人とも嫌な予感に襲われた。
 バーニはともかくナイドが、ナディンに暴力を振るい、ナキアに怪我を負わせる原因を作ったバーニに対して、寛容な態度をとれるはずがない。ナイドとバーニを二人だけにしておいたら、どういう事態を招くことになるか――。
 いちばんに駆けだしたのはナキアだった。ナディンとアルディも、すぐその後に続く。
 急流【イディグナ】の流れに翻弄される小石のように慌てて三人が飛び込んだ神域は、だが、案に相違して、しんと静まりかえっていた。






[next]