「……シベリアに帰る」 「え?」 一輝が帰ってきて1週間も経った頃、俺が口にしたその言葉に、瞬は不安そうに瞳を曇らせた。 「こっちには……いつ帰ってくるの」 なぜ急に俺がそんなことを言い出したのか、瞬は量りかねているようだった。 「気が向いたらな」 まさか俺が瞬の兄の生還を快く思っていないのだとは、瞬には察しようもないことだったんだろう。 「氷河……だって、氷河が今更シベリアに何の用があるっていうの!」 「一人でいることに意味があるという事実を自覚するのにいい場所だ、あそこは」 「氷河は一人なんかじゃないから、そんなこと考える必要はない!」 「二人なら良かったが、三人というのには付き合っていられない」 俺に そう言われて初めて、瞬は俺の不機嫌の訳を知ったらしかった。 「そういうこと……なの?」 「なにが、だ」 「……」 が、俺は、瞬のその認識を否定したかったんだ。 嫉妬とか焼きもちとかいうような単語で、俺の気持ちを片付けられてしまうのは、俺のプライドが許さなかった。 実際、それはただの嫉妬のせいだったから、なおさら。 「自分だけのものにならないものを、俺はさっさと切り捨てる。俺は不様なことをする自分を見たくない」 それは未だ嫉妬以前の“気分”にすぎないのだと瞬に告げながら、俺はそれでも心のどこかで期待していたんだと思う。 『行かないでくれ』と、瞬が俺にすがってくれることを。 当然といえば あまりにも当然のことなんだが、もちろん瞬はそんなことをしてはくれなかった。 「そんな理由で……そんなことで、氷河が僕を切り捨ててしまえるっていうのなら、さっさとそうしてしまえばいい!」 細い眉を勝気そうに歪めて、瞬は吐き出すように言った。 「そうされても僕は泣かないし、悲しんだり寂しがったりもしない……! 氷河は兄さんとは違うから! 側にいてくれないなら、きっとすぐに忘れてしまえるから……!」 「お互い、さっぱり割り切れるタイプでよかったな」 「……!」 唇を噛み、瞬が俺を睨みつける。 それは、だが、ほんの一瞬のことで、俺はあまり気にとめなかった。 独占できないのなら そんなものは欲しくないと俺が言ってしまうのと同様に、瞬もまた、俺が瞬を『切り捨てる』と告げたことに、プライドを傷付けられたのだろう──という考えが、ちらりと脳裡をかすめていっただけだった。 「──まったく、一輝も人騒がせな」 「兄さんが生きて帰ってこなかったら、僕たち、いつまでも一緒にいられたのかもしれないのにね」 「……かもしれんな」 微笑ってそう告げ合い、俺たちはどこか ぎこちなく唇を重ね合った。 「僕は兄さんがいてくれるから平気だけど、氷河……は?」 「俺もおまえも、元の自分に戻るだけだ。不都合はない」 「……そうかもね」 その時、俺は、それですべてが振っ切れたものと思っていた。 すべてが元に戻るだけだと思っていた。 だが――。 だが、恋をしたら、たとえその相手が他の誰かを見ていても、その相手にどれほど愛想のない言葉を投げつけられたとしても、人は 恋人の側を離れるべきではないのだということを、俺は、瞬と離れていた2年の間に思い知ることになった。 変なプライドなど投げ捨てて、俺は瞬の前に跪き、懇願すべきだったんだ。 頼むから、俺だけを見てくれ──と。 あるいは、せめて、仲の良い兄弟を頬笑ましく 見詰めていられるだけの度量を持つべきだった。 俺は、己れの妙なプライドのせいで、思いきり自分の首を締めることになってしまったんだ。 氷の国で、俺は初めて知った。 恋に落ちるのに明確な理由はいらず、ただ、好きでい続けるための理由だけがあればいいこと。 一緒にいた時間の長さと短さは、恋の感情の深浅に全く相関関係を持たないこと――。 俺は、瞬と離れていた2年の間に、瞬を求める心を更に深く養っただけだった。 たとえば、あの子供のように大きな瞳が、それに不釣り合いなほど深い色と光をたたえていることや、臆病と言ってしまってもいいくらい慎重な瞬が、ある一点を越えると、ひどく奔放で大胆になること──。 そんなことばかりを、気が付くと俺はいつも一人で考えているんだ。 そして、瞬は──瞬は、どうだったんだろうか──と。 瞬はただ慰めだけを俺に求めていたんだろうか? 兄を失った悲しみを俺に埋めさせようとしただけだったんだろうか。 それとも──。 俺が今こうして、瞬を求める自分の心に苛立っている、その百分の一でも、瞬は俺が側にいないことを寂しく思っていてはくれないだろうか? まるで“ごっこ遊び”のように恋人同士だった あの短い時が、今の俺にとって何物にも代え難いものになってしまったように、瞬にとっても、あの日々は 9割方は希望的観測から成る その期待に突き動かされて、俺はシベリアを あとにした。 |