薔薇の殺意






「一週間前に亡くなったグラード損害保険会社社長の死の真相を調査してほしいの。表向きは、誤って睡眠薬を飲み過ぎての事故死――ということになっているんだけど……」
手にしていたブ厚い書類袋をテーブルの上に放り投げると、沙織はガーゴイルズのサングラスを外した。

らしくもない革のライダースーツやサングラスは、もしかしたら、グラード財団総帥という立場を隠すための工作なのだろうかと、氷河は、いつも通り彼女の背後に控えている辰巳を見やり、嘆息した。
変装にもお忍びにもなっていないのだ。
ちらりと瞬を見ると、瞬も困ったような顔をしている。
ご注進したいところなのだが、そんなことをして沙織の気分を害したくはないし――といった風情だった。

氷河が、その件については不問に付すことにしようと、咳払いで合図を送る。
その合図を受けて、瞬は、お茶をいれるために給湯室へと踵を返した。
「事故死でない可能性があるんですか? 警察はどう見てるんです」
ソファに座るよう勧めながら、氷河が尋ねる。
すっかり服装に支配されてしまっているらしい沙織は、お嬢様らしからぬ乱暴な動作でソファに腰を降ろし、脚を組んだ。

「事故死と断定したのは警察なの。彼は、経済的に行き詰まってもいなかったし、仕事も順調、家庭も円満。自殺の原因は見当たらない――ってね」
それならそれでいいではないか――と氷河は思い、思うだけ思って口には出さなかった。
ほとんどグラード財団の内部監査室になってしまっている感がないでもないが、仮にも彼は探偵事務所を営んでおり、沙織はその客なのである。飛び込んできてくれた仕事を、自分から拒むことはない。

なにしろ、ハーデス戦以来、マトモな敵さんのお出ましがなくて、アテナの聖闘士たちは暇を持て余していた。ほとんど失業状態、することもない。
そんな時、瞬が、
「やっぱり、こんなことじゃいけないよ。ウルトラマンだってスーパーマンだって、普段はちゃんと正義の味方以外の仕事をしてるでしょ。僕たちも、なにか聖闘士以外の仕事を持つべきです」
と言い出したのである。

これ以上ないほど暇だった聖闘士たちは、その意見に一も二もなく賛成した。
「はーい。俺、星の子学園で保父さんやるー!」
「格闘家というのは、仕事と言えるのかな?」
「俺の仕事は放浪することだぞ」
と、星矢、紫龍、一輝は、即座に自分の職業選択ができたのだが、氷河はそうはいかなかった。
なにしろ彼は、既に仕事に就いていたのである。
彼は、“瞬の恋人”というのが自分の天職だと信じきっていたのだ。
が、それが自分の職業だと告げたところで、瞬が納得してくれるはずもない。
氷河は、だから、黙っていた。

「氷河は? 氷河は何かやりたいことはないの?」
返事のしようのない氷河に代わり、一輝が答えを返す。
「こいつにそんなことを訊くのは気の毒だぞ、瞬。こいつにできるのはせいぜい、ヒモか美人局つつもたせくらいのもんだ」
「ひも? 何を結ぶんです?」
「……」

ヒモについて、詳しく説明したくはなかったのだろう。
一輝が黙り込み、二番手は星矢。
「やっぱさー、動物園の白クマの飼育係とかじゃないか? 夏場にはクマと一緒にバテたりしてさー。あ、それじゃ駄目か」
勝手に一人で完結してしまった星矢の後を受けて、三番手に紫龍。
「特に就きたい仕事がないのなら、瞬の仕事の手伝いをするというのはどうだ? それなら氷河も一生懸命働くだろう。瞬は何をしたいんだ?」

それは適切なフォローだった。
瞬と一緒にいられるのなら、たとえ その職場がお花屋さんであろうがケーキ屋さんであろうが一向に構わない――と、氷河は思っていた。
紫龍の言葉を受けて、瞬が少々恥ずかしそうに口を開く。
そして、彼曰く、
「ん……僕ね、実はずっと前からシャーロック・ホームズに憧れてたんだ」
「……」
「でも、ほら、私立探偵って、一人じゃできないでしょ。ホームズにはドクター・ワトスンがいて、エルキュール・ポワロにはヘイスティングス大尉がいて、金田一耕助には轟警部がいて、明智小五郎には小林少年がいるんだよね!」
瞬の目は期待に輝いていた。
『氷河にドクター・ワトスンをやってほしい』という期待に、である。

「――」
氷河は、だが、即座に瞬に頷いてやることはできなかったのである。
探偵などという仕事は憧れだけでできるものではない――というまっとうな理由からではない。
彼は、自分がワトスン役というのに引っ掛かっていたのだ。
なにしろ、ミステリー小説でワトスン役というのは、探偵の引き立て役で、一般人より少々おツムのレベルが低い人物――と相場が決まっている。
探偵を引き立てることには何の不満もなかったが、『知能レベルが一般人よりちょっと下』という設定が、氷河にはどうにも甘受できそうになかったのだ。

これまでいつも大抵の頼み事には即座に頷いてくれていた氷河がいつまでも難しい顔で黙りこんでいるのを見て、瞬が微かに目を伏せる。
「あの……僕がワトスン役でもいいんだけど……」
瞬に恐る恐るお伺いを立てられて、氷河はそれ以上仏頂面を続けていられなくなった。
「――あ、いや、うん、ワトスン……ワトスン、な。実を言うと、俺も昔から憧れてたんだ。そのドクター・ワトスンてのに」
そう答えざるをえないではないか。男なら。

「ほんと !? 」
瞬の瞳がぱっと明るく輝く。
そうして――二人は今、この探偵事務所にいるのである。
出資金は全額グラード財団が――つまりは沙織が――面白がって出してくれた。






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