「さっさと本当のことを教えてしまうことだ。知らせずにいると、かえって月香は暴走するぞ」 一輝はそれだけ言うと、風人と花香を連れてリビングに行き、二人の遊び相手を始めた。 じゃれついてくる小さな子供の相手は、幼い頃の瞬で慣れているのだ。 暴走する女子中学生の相手よりずっと。 瞬と氷河、そして雪人と月香が、ほとんど使われたことのない一輝の家のダイニングテーブルにつく。 瞬が、しばらくの間をおいてから、小さな声で話し始めた。 「月ちゃん。ヒトゲノム解析計画――って知ってる?」 聞いたことのないプロジェクト名に、月香が横に首を振ると、彼女の兄が瞬に代わって説明してくれた。 「全世界の遺伝子研究者が総掛かりで、人間の全てのDNAを解読してしまおうって計画だ。西暦二〇〇五年に全ての解析が終了する予定になっている」 「DNAの解析?」 それは、つまり、人間の設計図を解析するということである。 「今、世界中の研究者たちが必死になって進めているその計画、実はグラードの遺伝子研究所では10数年前に完了してるんだ。僕は、その最後の頃、モルモット兼研究員として、グラードの研究所に入所した」 瞬の声は消え入りそうなほど小さく、月香はその言葉を一言たりとも聞き逃すまいと、全身を緊張させた。 「グラードの研究所は、でも、その結果を発表するのを躊躇し、そして、結局中止したんだ。それは、遺伝子治療に役立つっていうメリットと共に、倫理的に大きな問題を内包した研究結果だったから。……今でも騒がれているでしょ。クローン動物だの遺伝子組み替え食品だの……。でも、グラードの研究成果は、そんな他愛もない次元を一足飛びにして、クローンでも人工受精児でもない新しい人間を造りだせるところにまで到達してた。僕のDNAと氷河のDNAを組み合わせて、僕でもない氷河でもない新しい生命を造りだせるところにまで」 「え !? 」 何を、瞬は言おうとしているのか――。 月香は、氷河を見、雪人を見、二人の驚愕のない表情を確認して、息を飲んだ。 「僕は、グラードのDNA解析結果を元に、胚性幹細胞の培養に成功した。脳細胞にも体細胞にも生殖細胞にも変化しうる胚性幹細胞に、ヒトのDNAを組み込むことに成功したんだ。研究所の人たちはね、びっくりしてたよ。まだ十代の子供だった僕のことを、天才だと評した」 「それって、つまり……じゃあ、私たち――って……」 月香は、その先の言葉が出てこなかった。 瞬の話は、数時間前に理科の授業で聞いた話から何10年分、もしかしたら世紀単位で先を行っている。 瞬は大きく息を吐いた。 こころもち、体を氷河の方に傾ける。 「人間のDNAは環状ではなく線状で、二重らせんを描いている。二人の人間が出会って、自分の可能性を半分ずつ出し合って、新しい可能性を持つ次の世代を残し、死んでいく――。それが人間という生き物だってことを、僕はグラードの遺伝子研究に携わるようになって初めて知った。だから僕は胚性幹細胞の研究に没頭したんだ。その研究が成就すれば、僕が氷河を好きだってことに意味が見いだせるって思ったから。その研究を成し遂げなければ、僕が氷河を好きだってことは、遺伝学的に、生物学的に、自然科学的に、人間的に、何も――何も意味がない……そう思って。……多分、あの頃の僕は、DNAっていうものに取り憑かれていた……んだと思う」 「シュン……。じゃあ、私たちは――私は……雪兄さんもふーちゃんもはなちゃんも、ヒョーガのDNAとシュンのDNAから造られた子供なの……?」 月香はまだ、瞬の言葉を現実の事象として把握しきれていなかった。 だから、その呟きは、事実を事実として確認するためだけに発せられた言葉だった。 瞬は、しかし、それを非難の言葉だと思ったらしい。 「君たちが、母親というものを持たない子供として生きることに苦悩するかもしれない……って考えなかったわけじゃない。でも、僕は氷河が好きだった。氷河と僕の可能性を半分ずつ受け継ぐ君たちを愛せるってわかってた。僕は、だから……だから、僕はどうしても――どうしても君たちが欲しかったんだ……!」 「瞬……」 一人では自分を支えきれなくなった瞬の肩を、氷河が抱きとめる。 それでも、瞬の涙は止まらなかった。 「僕……思いあがってたんだ。世界中のどんなお母さんよりも深く強く愛してあげれば、母親のいないことで子供たちを悲しませたりなんかせずにいられるって、一人で勝手に思い込んで、結局月ちゃんを苦しませて……」 止まらない瞬の涙に半ばみとれていた月香は、瞬の苦痛に満ちたその呻きに、我に返った。 大きな誤解が瞬を苦しめていることに、ここに至ってようやく気付く。 月香は慌てふためいて、ぶるぶると左右に首を振った。 「シ……シュン、違うのっ! それって誤解! そんなんじゃないのっっ !! 」 それまで瞬を見詰め庇うことだけに気を配っているようだった氷河が、月香の慌てぶりに反応して、初めてまともに月香を見る。 「私っ! 私、ママがいないのが嫌で家出したんじゃないのっ! 私は、自分がヒョーガとシュンの子じゃないって思うのが辛くて、おじさんとこに逃げ込んだのっ !! 」 「へ……?」 このシリアスな場面にふさわしからぬ間抜けな声をあげたのは、月香の兄だった。 逆立ちしているペンギンでも見るような目を、妹に向ける。 「ママなんか別に欲しくないの。ママなんて、そんなのいたって、どうせヒョーガより綺麗なはずないし、シュンより優しいはずないでしょ。私はヒョーガとシュンが自慢で、でも、自分が誰か他の女の人の子供なんだって思うのが嫌で、だから一輝おじさんとこに来たんだもんっ!」 「つ……月香、おいこら、ちょっと待て、この馬鹿娘!」 それまで瞬を抱きしめながら、いつになく辛そうな視線を娘に注いでいた氷河が、金髪の家出娘を睨みつける。 「いったい、どこをどうすりゃ、そーゆー考えが浮かんでくるんだ !? 誰か他の女だと !? 」 氷河の痛いほど険しい視線にびくりと身を竦ませた月香の横で、雪人が思い切り吹き出した。 「つ……つまり、何か? 月香、おまえ、自分の声がシュンそっくりだってことに、今まで気付いてなかったのか?」 「え…… !? 」 「俺の髪がシュンと同じで全くコシのない猫っ毛だってことにも、ふーとはなの睫毛が金色だってことにも、全く気付いてなかったわけだ」 「え……あの……」 兄の言う通り、だった。 月香は全く気付いていなかった。 兄と自分は氷河にだけ、風人と花香はシュンにだけ似ていると思い、だからこそ他に母親が――少なくとも卵子を提供してくれた女性が――いると思い込んだのだ。 「ば……馬鹿か。12年も一緒に暮らしてきて、自分の顔しか見てなかったのか、おまえは」 氷河は怒りを通りこして、ほとんど投げ出すような口調である。 その氷河の胸に顔を埋めていた瞬も、涙でいっぱいの瞳を見開いて訴え始めた。 「そんなこと……そんなこと、あるはずないじゃない! 僕は――僕と氷河の子供だから……だから……。でなかったら、僕は、こんな危険な領域に足を踏み入れたりなんかしなかった……!」 唇を噛みしめて自分の娘を見詰める瞬の肩を、氷河が投げやりに、だが力づけるように揺さぶる。 「瞬。こんな馬鹿のために泣くのはやめた方がいい。家出でも何でも勝手にしてればいいんだ、この馬鹿娘! こんなところに長居は無用だ。帰るぞ!」 言うなり、月香を無視し、氷河は本当に音を立てて椅子から立ちあがった。 「大体、この俺が、瞬の子供でもないガキのために、毎朝8時にはベッドから起きだして、『おはよう』だの『車に気をつけろ』だの、いい父親の真似事なんかしたりするものか! ちょっと考えたらわかりそうなもんじゃないか。こんな、自分のツラばかり見て、周りの人間が見えてないような馬鹿が瞬の子供だなんて、俺にだって信じられん!」 「だ……だって、私、ヒョーガに似ちゃったんだもんっ! 仕方ないもん! 私だってシュンの方に似たかったのに、好きで周りが見えない人間になったんじゃないもんっ !! 」 開き直った駄々っ子のように反抗する月香に、氷河はむっとなった。 が、彼には言い返す言葉がない。 「シュンだってねっ! どーせヒョーガとの子供作るのなら、こんな、ヒョーガにだけシュンにだけ似た子供じゃなくて、もうちょっと適度に入り混じった子供を作ってくれればよかったのよ!」 月香は、自分が一般的な過程を経るどころか、人工受精児でないことすら、気に病んだりはしなかった。 造られた子供――。 だが、誰よりも愛し合っている二人から生まれ、その二人に愛されているのなら、今の幸福に不満などあろうはずもない。 「ど……どの部分に氷河と僕のどっちの形質を表現させるかまでは、僕、手を入れなかったんだ。乱数表を使って偶然に任せたから……だから、あの……」 月香に責められて、瞬が困ったように説明を始める。 その説明は、しかし、すぐに氷河によって遮られた。 「瞬! 甘やかすな! 月香、俺と瞬から美貌と才能を与えられていて、この上、何が不足だ !? 自分の性格ぐらい自分で直せ!」 氷河が言っても、全く説得力がない。 全く説得力はなかったが、月香は今度は素直に頷いた。 反面教師だと思えば、氷河は氷河でそれなりに立派な親ではある。 「はい、精進します。シュン、ごめんなさい」 ぺこりと瞬に頭を下げる月香を、微かな笑みを浮かべ、雪人が見詰めている。 兄の微笑に気付くと、月香はわずかに首をかしげた。 |