瞬は完全に氷河を無視していた。 寒い冬の朝。 天気予報は夜半から雪になると自信ありげに断言していたが、それも雪と氷の聖闘士の誕生日ならさもありなんと、星矢や紫龍は妙な納得の仕方をしていたのだが。 「瞬、どーしたんだよ? 今日は歯茎も溶けそうな甘いケーキ買ってきて氷河を辟易させてやるって、10日も前から張り切ってたくせに。氷河の奴、何かしでかしたのか?」 「氷河。おまえ、何をしたのかは知らんが、さっさと謝ってしまった方がいいぞ」 非は氷河にありと決めつけた星矢と紫龍の態度にムッとした氷河は、だが、彼らに反論はできなかった。 彼がそうしなかったのは、つまり、彼等の判断が正鵠を射たものだったからである。 「俺は謝ったぞ。もう何回も」 星矢や紫龍に状況を説明するというよりは、瞬の頑なさを責める口調でそう言い、氷河はラウンジの長椅子に乱暴に腰をおろした。 おそらくは氷河を無視するために、瞬はベランダに出て、灰色の冬空を見上げている。 氷河の言葉など聞えていない振りを続ける瞬の寒そうな肩に一瞥をくれてから、紫龍はおもむろに顔をしかめた。 「何度も謝って、それでも許してもらえないということは、よほどひどいことをしたんだな、氷河、おまえ」 「――別に大したことじゃない」 非難がましい紫龍の言葉が気に障らなかったわけではないのだが、瞬に聞こえることを恐れて、氷河の声は自然に呟くような小声になった。 が、瞬は、氷河を無視する振りをして、氷河の言動に全神経を集中していたものらしい。 今にも雪が降りだしそうに凍えた空にくるりと背を向けると、瞬は偉そうにソファにふんぞりかえっている氷河を怒鳴りつけた。 「あれを大したことじゃないって言うんだ! 氷河、少しも反省してないんだね! 形ばっかり謝ったって、僕、絶対許してなんかあげないんだからっ !! 」 きっぱりそれだけ宣言すると、瞬はまたすぐに氷河に背を向けた。 その全身が尋常でない怒りに包まれているのが、星矢にも紫龍にもはっきりと見てとれる。 星矢と紫龍は肩をすくめ、氷河は溜息を吐きだして、更に深くソファに身を沈めた。 「おい、氷河。おまえ、マジで何をしでかしたんだ。振りじゃなく、本気で怒っているぞ、瞬の奴」 この世に、本気の瞬ほど恐ろしいものはない。 紫龍は極力音量を抑えて、責めるように氷河に尋ねた。 氷河が、一瞬、唇の端を歪める。 怒りに燃える瞬の肩にちらりと視線を投げてから、彼は、紫龍よりも更に低く小さい声で、言いたくなさそうに事の次第を説明しだした。 「だから、大したことじゃないんだ。昨日、一輝が城戸邸に戻って来ただろう。それで浮かれた瞬が、朝っぱらから俺の横で一輝の話ばかりするもんだから、ついムッとなって――」 氷河は服を着けようとしていた瞬に、 『一度一輝と寝てみろ。俺の方がいいってわかるから』 ――と言ってしまったそうなのだった。 「……」 「……」 星矢と紫龍の絶句は10分間の長きに及んだ。 まあ、当然ではある。 なんとか気を取り直した――取り直しきれないまま――紫龍が、蒼白な頬をして、どもりながら氷河に言う。 「……氷河、おまえ、そりゃ……ど…土下座くらいじゃすまんだろ。5、6回死ななきゃ許してもらえないぞ」 紫龍の横で声を失ったままの星矢が、その意見に賛同して幾度も縦に首を振る。 第三者が聞いても、それは、あまりと言えばあまりな発言である。 寝物語に他の男の話を繰り返した瞬に多少の非があったとしても、氷河の罪はその56億4千万倍以上だと、星矢は思った。 が、当の氷河は、56億4千万倍どころか、朝食に5分遅れた時ほどにも反省しているようには見えなかった。 蒼ざめる星矢と紫龍から見れば呑気そのものとしか思えない態度で、親切な忠告をしてくれた友人に侮蔑の視線を投げる。 「こんなことでいちいち死んでられるか。だいいち、俺は貴様のように馬鹿げた生き返りの特技は持っていない」 「似たような真似をしたじゃないか。天秤宮で」 「瞬が許してくれるのを氷づけで待つのか? 勘弁してくれ」 これ以上ご親切な友人の相手はしていられないとばかり、右の手でその金髪をがしがし掻き乱しながら、氷河は再度瞬に向き直った。 「なあ、瞬。いい加減、機嫌をなお――」 「氷河とは、1年くらい絶交します!」 「……」 瞬は、氷河の謝罪も弁明も受け付ける気はないらしい。 いつになく冷たく頑なな瞬の反応に、氷河はしばしたじろいだ。 絶交期間が“一生”でなく“1年間”だというところに妙な現実感を覚え、初めて本気で焦り始める。 「しゅ……瞬……」 ――と、氷河がソファから腰を浮かしかけたところに、タイミングがいいのか悪いのか、この騒ぎの元凶たる一輝の登場。 瞬の前でなら、土下座しての謝罪もやぶさかではなかったが、氷河は瞬の兄の前でだけはそんなことをしたくなかった。 表情を強張らせ、浮かしかけた腰を元の場所に戻す。 氷河のその様子を見て、星矢と紫龍は内心で溜息をついていた。 一輝が、ラウンジ内の妙な空気を感じとり、右目を僅かに眇める。 「なんだ? 何かあったのか?」 その質問にどう答えたらいいのかわからない星矢と紫龍、答えるつもりなど毛ほどにもない氷河の前を横切って、瞬が兄の許に駆け寄っていく。 「兄さん、おはようございます! 今日は何か予定あるんですか? ないのなら、僕、兄さんと一緒に出掛けたいとこがあるんですけど、付き合ってくれませんか?」 満面の笑みをたたえた弟を無言で見下ろした一輝は、すぐにその笑顔が作り物だということを見破った。 「ケーキ屋……というのではなさそうだな。どうした。氷河がまた何か馬鹿なことでもしでかしたのか」 一輝は、伊達に長年瞬の兄をしてきたわけではないのである。 一瞬にして事情を見透かされ、瞬は困惑して目を伏せた。 氷河への当てつけに兄を利用しようとしたことを、当の兄に知られてしまったのだから、それも当然のことではある。 が、一輝はそれに気を悪くした様子は見せなかった。 「おまえに付き合う時間はないが、瞬、俺に付き合え。今、国立博物館に、平等院展が来ているそうだ」 「あ……はい! ご……ごめんなさい、兄さん。ありがとうございます!」 「何を謝っているんだ。おかしな奴だな」 「はい……ごめんなさい……」 瞬が泣きそうな顔をして兄を見上げるのを、氷河はぎりぎりと歯噛みをしながら睨みつけていた。 『氷河に、せめて兄さんの百分の一ほどの思いやりがあったなら……』 どうせ、瞬はそんなことを考えているに違いないのだ――と苛立ちながら。 (俺の誕生日の前日にふらりと帰ってくるあたり、嫌がらせとしか思えないんだよ、一輝の奴!) 一輝の腕にしがみつくようにして瞬がラウンジを出ていくと、氷河は苛立ちの捌け口を求めて、その場に残った哀れな二人の友人に向き直った。 |