3年後、俺の胸の辺りまで育った桜は、初めて蕾をつけた。
桜には魔力が潜んでいるに違いない。
3年の月日が経っても、瞬の面影が俺の中から消えることはなかった。
俺は、あの幻想に囚われたままだった。
あんなに儚い、まるで夢幻のような、一瞬だけの恋が、どれほど忘れようとしても忘れられなかった。

また、桜の季節が巡ってくる。
瞬を抱いた時、俺と瞬の上に花びらを散らし続けていたあの桜の木は、今年も花をつけているのだろうか。
そんなことを考えながら庭に出た俺は、そこで、あれほど求め続けていた桜の精を見つけた。
昨日まで俺を捉えていた幻とは違う、はっきりとした輪郭を持った花の姿が、夜の庭に白くくっきりと浮かびあがっている。

「瞬……!」
「これ、あの桜?」
突然瞬は切り出してきた。
3年前と同じように、相手の事情も都合も驚きも気にかけていない様子で。
「そ……そうだ」
どこから入り込んだのかと訝り、守衛は何をしていたのかと憤る余裕さえ、俺には持てなかった。
桜の花びらが風に乗って飛び込んでくることに、不思議などない。
今は桜の季節なのだから。
俺の桜は、3年前より少し大人びて――着物ではなく、普通の洋服を着ていた。

「瞬……」
「お久し振り」
「なぜ」
ここは、瞬と出会った、あの静かな鄙ではない。
桜の大木もない。
あるのは、俺の肩にも届かない小さな桜の木ばかりである。
だのに俺は、もう、あの夢幻の世界に引き込まれていた。
瞬と桜以外のすべてが、視界から消え去っていた。

「氷河、今も僕を好き?」
瞬の言葉の脈絡の無さになど、今更驚かない。
俺は、答える代わりに瞬の唇をふさぎ、瞬の身体を抱きしめた。
「なぜ、あの時、来なかった」
「行けなかったの。僕、あの桜を置いては。僕は、あの桜の精だから」
桜の精――瞬がそうだと言うのなら、そういう理由もあるのかもしれない。

俺は、瞬を凝視した。
桜の精だと言われれば、そうに違いないと頷けるだけの容姿を、瞬は持っていた。
しかし、綺麗すぎるだけの普通の人間だと思うこともできなくはない。
瞬は少し背が伸びていた。
瞳には、理知的な輝きが増している。
多少の変化や成長は、桜の木にもあるだろう。
ともかく、あの時、あの散り急ぐ桜の中で俺の腕の中にいた瞬が、今、俺の目の前にいた。

「桜の精だろうが、何だろうが……!」
俺は、それ以上何かを考えるのをやめて、瞬を抱き上げた。
3年間、俺を悩ませ続けた花の幻を、夢でもいいから現実のものにしたかったのだ。


桜の精は、俺に抱かれている時にはすっかり人間だった。
息を乱して喘ぎ、焦らされれば身悶え、俺自身を受けとめる時には痛がり、歓喜のために身体の内を痙攣させさえした。
花なのか、人なのか、そんなことはどうでもよかった。
互いに溶け合うほどに強く抱きしめ、離れることに痛みを感じるほどの相手。
そんな相手に巡り会うことができただけでも、稀有な幸運ではないか。
花を愛でるにしては乱暴なやり様で、俺は瞬を貪り続けた。


「ごめんね、氷河」
俺は、歓を極め尽くすと瞬から離れ、だが、その肩を掴みあげるようにして抱きしめて、目を閉じていた。
深夜というよりは明け方に近い時刻、瞬がそう囁いて、俺の腕からすり抜ける。
切望していたものを手に入れて満足し、3年振りに深い眠りに落ちていたはずの俺が、それに気付いたのは――おそらく、満ち足りていながら、危惧してもいたせいなのだろう。
再び瞬と離れる事態を怖れて、俺の神経は張りつめていたに違いない。

瞬が身仕舞いをしている間、瞬を引き止めることもできた俺は、しかし、そのまま眠っている振りを続けた。
瞬が人間だということを確信した俺は、人間である瞬の正体を知りたかったのだ。
狸寝入りしている俺に無言の別れを告げて、テラスから庭に出た瞬は、驚いたことに、彼の背丈より1メートルも高い鋼鉄のフェンスを軽々と飛び越えて、次の瞬間には、俺の屋敷の敷地の外にいた。
そして、やっと白みかけてきた、ほぼ俺の車の行き来のためにだけ存在しているような公道を、大通りの方に向かって駆けていった。

瞬を追った役立たずの守衛は、首にされることを怖れて職務に励んだものらしく、首尾よく瞬の居所を突きとめ、俺に連絡を入れてきた。
呆れたことに、瞬は俺の屋敷から歩いていけるほどの場所にある、某老舗ホテルの中に消えていったということだった。


守衛から連絡を受けると、俺は即座に早朝のホテルに赴いた。
「明け方近くまで一緒にいた知り合いが、忘れものをしていった。こちらに滞在していると聞いていたので、届けにきたんだがわかるかな。名前を瞬としか聞いていないんだが」
「城戸様ですか? お電話をお繋ぎいたしましょう」
ホテルマンは、幾度かこのホテルの会議室を利用したことのある俺の顔を見憶えていたらしく、あっさりと瞬の名を俺に洩らしてくれた。
あの桜のある家の元の持ち主の名。
やはり、瞬はあの家に連なる存在らしかった。

「いや、急ぎはしないんだが」
「では、私どもの方でお預かりいたしましょうか? 今日、学校に行かれる時にでもお渡ししておきますが」
話ぶりからして、瞬はここから“学校”に通っているものらしい。
普通の学生には許されないだろう贅沢に、俺は少々驚いた。
「いや、直接渡そう。瞬がここを出るのは何時頃だ?」
「月曜日は1限から講義がおありですから、8時半にはこちらをお出になります」
時計を眺めてから、俺は電話で秘書室長を叩き起こし、今日の全ての予定のキャンセルを指示した。


「桜の精がホテル住まいとは」
瞬がロビーにおりてくるのを、俺は律儀にホテルのティーラウンジで待っていた。
早朝のラウンジは俺の他に人影はなく、考えを整理するのに好都合だった。“考え”と言っても、それはほとんど“謎”と同義の言葉だったが。
当主の亡くなった城戸の家には、未亡人と成人した息子が一人いるきりだということになっていた。
あの付近で瞬らしき少年を見たことのある人間は、実際ひとりもいなかったのに――。

「氷河」
エスカレーターから降りてきた瞬は、そこに俺の姿を見い出して僅かに目をみはったが、多分、自分の居場所を突き止められるかもしれない可能性には、最初から思い及んでいたらしい。
小さな吐息の後に、瞬は<
「あの家、まだあのままなの? 氷河のものなんだから好きに処分していいんだよ。……桜ごと……」
「おまえは、やはり、あの家に住んでいたのか? 近隣の者は誰もおまえを知らなかった」
自分の言いたいことだけを言って、相手の知りたいことには答えない瞬の話法を、俺は真似た。
瞬は、もう一度小さく息をついて、俺のはす向かいの肘掛椅子に腰をおろした。
そして、初めて自分のことを話し出した。






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