「――僕の父は、母をお金にものを言わせて、無理矢理妻に迎えたの。母には他に好きな人がいたんだけど」
誰のことかわかる? とでも言うように意味ありげな目をして、瞬は俺の顔を覗き込んできた。
多分、それは、俺の父のことなのだろう。
そして、俺の父は、その頃は、何の力もない、桜の花に魅入られた一介の留学生に過ぎなかった。
瞬も、無力だった恋人を責めるために、そんなことに言及したわけではないらしかった。

「母は、家のために、泣く泣くその恋を諦めて、父の許に嫁いで――でも、それなりに平穏な生活を送ってたんだよ。夫になった相手に愛され望まれてることはわかってたし、忍耐と従順を美徳とする躾を受けてきた上に、順応力もある人だったから、母は、いっそ見事なくらい貞淑な城戸の妻になりおおせた。でも、母には、いつまで経っても子供ができなかったんだ。ああいう家で、跡継ぎの埋めない妻っていうのは致命的だから、父は周囲に離婚を勧められたりもしたらしい。でも、父はそうしなくて……。だから、母は――父を愛していたかどうかはともかく、信頼してはいたと思う。おそらく、感謝もし、尊敬もしていた。けど……」

これまで、いつも断片的な言葉しか口にしなかった瞬の唇が――染井吉野を語った時を除いて――滑らかに長い文章を紡ぎ出していた。
「結婚して十数年が経ったある日、父が子供を一人連れてきたの。どうしても跡継ぎが必要で、だから外の女性に産ませ育てさせてたっていう、10歳になる男の子。父は、母に、その女性は亡くなったと言ったそうだけど、多分、最初から、ある程度の年齢になったら城戸の家に入れるつもりでいたんだろうね。政略結婚とは言え、父を信じてた母は、10年以上もの間、父に裏切られていたんだと知って……そう、まるで、復讐するみたいに子供を産んだの。その子供は、髪の色も瞳も父には似てなくて、母が昔好きだった異国の人に似ていた。――それが僕」

散る花びらのように断片的な言葉ではなく――今の瞬は、人間の論理性と明快な国語力を持っていた。
「父は当然疑った。疑って、DNA鑑定までしたんだけど、九九パーセント以上の確率で、僕は父の子だっていう結果が出たんだ。でも、父は信じられなかった。認めなかった。自分の子でないなら養育の義務もないって言って、僕は父が死ぬまで――桜の木の横に数奇屋があったでしょう? あそこに閉じ込められてたの」

「瞬、おまえは俺の父の……?」
瞬に問いかけながら、しかし、瞬の答えを待つまでもなく、俺はその可能性の皆無なことを知っていた。
俺の父の中では、桜の精は既に思い出だった。
だからこそ、母も、父が桜の花を忘れずにいることを許していたのだ。
案の定、瞬が横に首を振る。

「母が昔の恋人に会っていないか、そうでないにしても他に情人がいるんじゃないかって、父は調べ尽くして、でも、そんなことは不可能だっていう結論に達したらしいよ。母は滅多に外出しなかったし、外出する時にも家でも、いつも一人じゃなかったそうだから」
車を出さなければ外出もままならないあの土地で、しかも旧家の令室となれば、その確認は容易だったことだろう。
「だから、父は調べ始めたの。遺伝とか――あるいは、奇跡とか、そういうこと」

奇跡――?
確かに、瞬が俺の父の子だというのなら、それは奇跡だ。
しかし、そんな奇跡に何の意味があるのだろう。
「初めて会った時、染井吉野の話をしたでしょう? あれは、父が僕に投げつけた遺伝学の本を――他にすることもなかったから読んで得た知識だよ。もともと教師志望だった母に、義務教育レベルのことは教えてもらえてたし、僕の友だちは本だけだったから熟読した」
「……」

同じ木の花同士では実を結ばない染井吉野。
だが、瞬の話を聞いていると、まるで、瞬の母は自分一人の力で、触れ合うことも叶わない男の子供を産んだのだとしか思えない。
そんなことができるはずはないのに。
得心できないでいる俺を見てとった瞬が、俺に小さい微笑を投げてくる。

「僕は本当に父の子なんだって。母さんも、どうしてこんな髪や瞳の子が生まれたのかわからないんだって」
「……」
「母さんはきっと……自分の思い出の中の恋人と、夢の中で同衾したんだね」
「……」
「父も、結局はそういう結論を出すことしかできなかったみたい。母は形の上ではあくまでも父の貞淑な妻で、裏切ったのは心だけなんだって。父から離れてしまった母の心が、僕を産んだんだって。でも……その方がずっと辛いよね」

それは確かにそうだろう。
形の上では貞淑で完璧な妻。しかし心だけはここにない。
そんな妻を愛している夫のやりきれなさを思うと、彼の瞬に対する仕打ちも――決して許せることではないが――理解できないことでもない。
「跡継ぎ欲しさとはいえ、自分も妻を裏切っていたくせに、父には、それがよほど辛かったらしくて――段々、何事にも投げ遣りになって、事業を疎かにして、家はどんどん傾いていって、終いには家を売りに出すしかなくなった。その家を買ったのが、父とは逆に成功した氷河のお父さんで――多分、父は、母と氷河のお父さんの恋を憎みながら死んでいったのだと思うよ」

瞬の母が、愛していたのは、生きている時間と同じだけ年齢を重ねた、現実の男ではなかっただろう。
彼女が愛していたのは、思い出の中にだけ存在する一人の男だったに違いない。
当人たちには、とっくに思い出になっていた恋。
瞬の父は、それに振り回されて、何かを誤ってしまったのだ。

「母は、父が亡くなってから、しばらくぼんやりしてたんだけど――僕を人間に戻すために、あの日――氷河と約束してた、あの日――僕を連れて、あの家を出たの。氷河の上に、思い出の中にしかいないはずだった昔の恋人の姿を重ね見てしまったせいで、逆に現実に気付いたのかもしれない」
いや、瞬の母が愛していたのは、本当は瞬の父だったのかもしれない。
瞬の母は、思い出の中の男の子を産んでしまうほどに、夫の裏切りが辛かったのではないだろうか。
奇跡を起こして復讐せずにはいられないほどに、夫の裏切りが許せなかったのではないだろうか。

「――人間に戻るのに3年かかった」
瞬の母は、瞬の父を苦しめるために、瞬を産んだ。
そう考えるのは、うがちすぎだろうか。
復讐が成って呆然としていた瞬の母は、そして、やがて我に返り、瞬を人間に戻さなければならないことに思い至ったのではないだろうか。
「ごめんね、氷河。僕は……それまで、僕を抱きしめる時にはいつも異国の人の名前を口にする母に、僕のためにこの家を出るって言われて……氷河のとこに行けなかったの」

その異国の名を冠するものの正体が、彼女の夫だったということは――いや、すべては俺の想像に過ぎない。
桜の花が儚く美しいだけのものではないということを実感し、この3年間、桜の幻影に苦しめられ続けた男の、これはただの空想物語でしかないのだ。
「それから、母は僕を普通の人間に戻すために手を尽くしてくれたよ。特別の教育機関で、特別の教師、心の方のメンテナンスにも気を遣ってくれたし、これまでの不遇を詫びるように、贅沢もさせてくれた。母には、父と結婚した時に父から贈与された母個人の財産が相当あったし、氷河のお父さんはあの家と土地に評価額の倍も出してくれていたから」
「……」

大変だったのだろうと、思う。
人の姿もまばらなあの桜の里で、限られた家人としか接したことのない少年が、“社会”というものを一から学んでいくのは。
「なぜ、夕べは黙って出ていったんだ」
だが、今の俺にはそんなことより、そうしてやっと俺の許に戻ってきてくれた瞬が、なぜまた俺から離れていこうとするのか、そちらの方がはるかに重要な問題だった。
「それは……」

それまで滑らかだった瞬の口調が、ふいに澱む。
瞬はひどく悲しそうな目をして、俺を見上げた。
「僕、人間に戻ったから、わかったの。氷河はいい人だけど、良くない性癖の持ち主なんでしょう?」
「……なに?」
俺は一瞬、頭の中が真っ白になってしまったのである。
「でも、僕は、どうしても、もう一度だけ……氷河に抱きしめてもらいたかった。だから……大学に入るために上京して、氷河の居所はすぐにわかったから……」
「……」
「もう一度だけ、氷河に会いたかった。そしたら、ふっ切れると思った」

俺は、瞬の言葉を幾度も反芻し、その意味を理解しようと努めた。
良くない性癖――というのは、つまり、俺が男で、瞬もそうだということを言っているのだろうか。
確かに、それは、誉められるようなことではないし、一部の人間には認められないことでもあるだろう。
だが、それが何だというんだ?
人は、誰かに誉められ認められるために人を愛するわけじゃない。

「ちょっと待て。俺はそんなことで、3年間もお預けを食っていたのか?」
「え?」
「しかも、『もう一度だけ』だと? おまえはもう俺と会わないつもりでいるのか?」
人間になった瞬は、人間の作ったルールや決まり事に捕われて、生きているものにとって何がいちばん大事なのかということを忘れてしまったのだろうか?
それなら、そのことを思い出させてやらなければならない。
桜の精でいた頃の瞬が、どれほど素直な眼差しを俺に向け、そして、まっすぐに俺を求めてくれていたことを。

「おまえの部屋はどこだ」
「氷河?」
これから部屋に戻ることの意味が、瞬にはすぐにはわからなかったらしい。
「僕、これから学校に……」
馬鹿げたことを言い募る瞬の顎を、俺はテーブル越しに伸ばした手で掴みあげた。
「これは、学校より大事なことだ……! いいか、俺は3年も! 3年間もおまえの面影に縛られて、毎日を鬱々と暮らしてきたんだぞ! 責任を取れ、人間なのなら!」

花の季節の終わりと共に消えてしまう桜の精なら諦めもつく。
しかし、今俺の目の前にいる瞬は、春が過ぎても消えることのない人間なのだ。
今の瞬は、俺と同じ世界に、俺と同じ人間として存在している。
手放すこととなど、思いもよらなかった。






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