「いったい、氷河に何があったんだ?」
加減のない攻撃で半ば以上が根こそぎにされてしまった城戸邸の庭の草木が映る窓を横目に見ながら、紫龍が呟くように言う。
それは、暗に、瞬に心当たりを問うているようだった。
尋ねられても、瞬には答えようがなかったが。
氷河は、洗脳されているふうでもないし、記憶を失っているようにも見えなかった。
誰かに操られているようにも見えない。
徒党を組んでいるわけでもなく、攻撃は彼一人の手で加えられていた。
紫龍の疑念への回答を持たない瞬が、仲間の目が追っていたものの方に視線を巡らす。
氷河の攻撃を受けて、一瞬にして荒れ果ててしまった城戸邸の庭へと。

瞬は、花が好きだった。
その華やかさは氷河に似ている。
瞬は緑が好きだった。
氷河の側にいるように心が安らぐ。
瞬は樹木が好きだった。
それは、氷河のように朴訥で頑固で力強い。

瞬の好きなものを平気で壊してしまえるほどに、あの氷河は氷河ではなかったのだ。
瞬は、今更ながらに、そして再び、不条理な現実を目の当たりにする思いで、荒れ果てた庭を見詰めていた。


ある日、いつものように、氷河はふらりと城戸邸を出ていった。
そして、再び瞬の前に姿を現した時、彼は瞬の敵になっていた。
瞬はいつもと同じように、氷河はシベリアに行っているのだと思っていた。
もっとも、今は誰もいない白い北の国に、氷河が何のために帰っているのかを、瞬は知らなかったが。
瞬が氷河にその理由を問い質さず、彼を引き止めることもせずにいたのは、シベリアから帰ってきた時の氷河のセックスが激しくなるからだった。
だから、氷河は自分の求めているもの、自分に必要なものが何なのかを確かめるために、荒涼とした北の大地に向かうのだろうと、瞬は思っていた。
それを再認識して、彼は日本に──彼の恋人の許に──帰ってくるのだと。

数日前にも、氷河は、『行ってくる』と瞬に告げて、ここを出ていったのだ。
瞬もまた、いつものように微笑して、彼を見送った。
氷河が日本に帰国したら、また あの情熱的な夜と抱擁が戻ってくるものと、瞬は疑いもなく信じていた。
互いを見失うほどに溶け合うことのできるあの熱狂に、自分は再び身を浸すことができるだろうと。
確かに、その言葉通りに、氷河は瞬の許に帰ってきた。
敵として、ではあったが。

「痴話喧嘩にしちゃ、殺気立ってたな」
星矢が、冗談めかしてぼやく。
「心当たりはないのか」
これまで口にせずにいた言葉を紫龍は口にした。
瞬にわからないことが、星矢や紫龍にわかるはずがない。
それはつまり、氷河の変貌の訳は、誰にもわからないということである。
氷河は、アテナにする疑念が芽生え、アテナを害そうとしているのではなさそうだった。
そもそも、アテナは、もう数ヶ月も前からギリシャに行ったきりだった。
それは氷河も知っている。
彼は明らかに瞬を狙っていた。

瞬が左右に首を振るのを見て、星矢と紫龍の眉が曇る。
瞬以上に、星矢と紫龍には氷河の変貌の訳が理解できていないだろう。
彼等には、瞬が抱く疑念の上に、『城戸邸には、瞬がいるのになぜ?』という疑問が重なるのだ。
一輝のそれは似非だが、氷河が 他者と共にあることを好まない性向は真性である。
瞬は、そんな氷河を仲間の許に繋ぎ留めておくための、あるいはアテナの聖闘士として存在させるためのエサであり 鎖だという意識が、彼等の中にはあった。
それが力を失うことは、彼等には考えられないことだったのだ。
食べ物がなければ、生き物は死ぬのだから。

「そういえば、氷河がシベリアに発つ前の晩に──」
「前の晩に?」
その時 氷河と瞬がどういうシチュエーションにあったのかを察して、だが、それには触れず、紫龍は続く言葉を、瞬に促した。
「氷河、僕と一緒にいるのは危険だ……って言ってた」
「危険?」
瞬が頷く。
その時には、気にもとめなかった。
『おまえといるのは危険だな』
あの夜、氷河はそう言って、瞬から身体を引き、その横で瞼を閉じたのだった。
瞬が思い出した氷河の言葉を聞いて、紫龍は眉根を寄せた。
それは、謎を解くためのヒントにはなり得ず、謎を深めるばかりの言葉だったから。
紫龍には、まさか、あの氷河が、自分の精力を瞬に搾り取られることを懸念していたとも思えなかったのだ。

「沙織さんが、何か掴んでないかな?」
星矢が、ギリシャにいるアテナの名を出す。
アテナの許になら、何か情報が寄せられているのではないかと、星矢は期待しているようだった。
紫龍が、それはあまり期待できないというように、肩をすくめる。
氷河が何者かたちと徒党を組んで城戸邸を襲撃してきたというのなら話は別だが、氷河はひとりきりだった。
しかも、氷河は瞬を瞬と認めていた。
その行動は不条理だが、氷河は正気だった。
この事態は、おそらく、氷河ひとりの中で起こった変化の結果である。

「しかし、ギリシャに行くのはいいかもしれない。氷河の狙いが瞬なのだとしたら。しつこい奴のことだ。また仕掛けてくるだろう」
「城戸邸がブッ壊れちまったら、帰るところがなくなっちまうもんな。……氷河の」
星矢が、紫龍の提案に賛同してみせる。
「うん」
こんなことになっても氷河を仲間として認めてくれる星矢たちに感謝して、瞬は俯くように彼等に頷いた。






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